藤井風とは何者?唄う桃太郎は音楽で鬼を征伐に!

Kaze画像

CONTEMTS

Fujii Kazeって誰?

現在サブスクチャートで頭角を表し始めている、藤井風(ふじいかぜ)とは何者なのか?

もうすでに知っている人もかなりいると思うが、まだまだ知らない音楽好きの人も多いと思われるので、その人たちのために書こうと思う。

なぜなら、その青年を知らないことは音楽好きとしては損?は言い過ぎとしても、得をし損ねる(やはり【損】か!)からだ。

Kaze 

天は二物以上を与えた

「天は二物を与えず」という法則は、もはや機能していない。

この青年の「音楽センス」「歌唱力」「演奏力」「卓越したグルーブ感」「美貌」「英語スキル」「親近感」「長身(181cm)」「謙虚」「媚びない」ほかにもあると思うが、まったく非の打ち所がないとは彼のことだ。

 

一体彼の弾き語りを見て、彼を嫌いと思える音楽好きとはいるのだろうか?

まぁ、現実には必ずそういう人もいるのだが(笑)、イメージ的には誰もがファンになってしまうような奥の深い魅力を感じさせる。

クールに見えるルックスからはギャップがある、素朴でおっとりした岡山弁(一人称はワシ!)と流暢な英語を境目なく喋る青年だ。それもまったく嫌味なく。いやはや・・・。

Kaze

岡山が生んだ規格外音楽家、アルバムデビュー

藤井風(ふじいかぜ)くんは、岡山県浅口郡に生を受けた現在23歳。

四人兄姉の末っ子でちなみに、お兄さんは音楽家の「空」さん、お姉さんが「海」さん、「陸」さんときて・・・「風」くんだ。

その命名のセンスも素敵である。

 

彼はシンガーソングライターで楽器はピアノ、エレクトーン、そしてサックスを奏でる。

1stシングル「何なんw」は2019年11月18日に配信限定リリース。その後、同年12月に2ndシングル「もうええわ」、2020年1月24日1st EP 「何なんw」(+3曲)、2020年2月21日2nd EP「もうええわ」(+3曲)を同じく配信限定リリース。

満を持して2020年5月20日、1stアルバム『HELP EVER HURT NEVER』をリリースした。(初回限定盤はカヴァー曲を収録したDisc 2を含む2枚組仕様)

お父様の凄さ、音楽と英語の英才教育

実家は喫茶店をやっていて、何といってもお父様が凄い。風くんが3歳の頃からお父様の膝の上で、東西のありとあらゆるジャンルの音楽を聴かせてあげたそうだ。

日本の演歌を含む歌謡曲からR&B、ジャズ、ポップス、クラシック、なんでもござれだ。同時にピアノも始めている。

英語もお父様が教えたということだが、何もお父様が楽器や語学に長じていたのではなく、息子たちのために自ら学びながら教えたというから素晴らしい。

 

彼の音楽はR&Bをベースとしながらも、ジャズやヒップホップ、シティポップ、ロック、ブルースや昭和歌謡にいたるまで、実に様々な要素が決して取ってつけたようではなく、内側から滲み出るように感じられる理由はその辺りにあるのだ。

 

そしてまた、岡山弁がほどよく織り込まれた歌詞が効果的にリズムに乗り、オリジナリティを醸し出している。

「もうええわ」のサビの「もうええわ〜」など、日本語とは思えないアフリカの部族語の未知なる美しい響きに聴こえてしまう。

もうええわ(Mo-Eh-Wa) 

 帰ろう(Kaerou) 

お父様の決定的に凄いところは風くんが12歳の時に、「これからはYouTubeの時代が来る!」とばかりに、お父様とお兄さんが風くんをサポートしてYouTubeで音楽動画の配信を始めた。

今となっては積もり積もって膨大な数の、ピアノの弾き語りによる洋楽邦楽の名曲カバー集となっている。

それぞれの動画が本当に素晴らしく、デビューのずっと前からのファンがたくさんできたことは想像に余りある。

 

YouTubeのカバー曲が高評価でプロの門が開く

YouTubeの登録者数がぐっと増えた2018年の夏に、音楽関係者から声が掛かった。

そこから音楽イベントに精力的に参加していくなかで、2019年のデビューとなったのだ。

まさに音楽関係者から声が掛かる直前の、2018年6月のこの「ホテルカリフォルニア」など、もう本当に鬼気迫る動画だ。

全く鍵盤を見ずにあれほどダイナミックでグルービーかつパーカッシブな弾き方、エモーショナルなボーカル。本家の魅力とはまた違う、完全なFujii Kazeワールドに染まっている。

 

椎名林檎の曲、これは女性にとって視聴要注意動画である。

あまりの色気にめちゃくちゃにされたくなるのでは?(笑)

この筆者も大好きなカーペンターズのキラーチューンの選曲など・・・渋い。

音楽を本当に愛してるんやな〜と思ってしまう。

 

世界を視野に英語で発信

ところで、彼の英語も素晴らしい。もちろん喉発音。

アメリカ英語のように響く彼の英語は、ネイティブと同じとはいえなくとも、ネイティブに100%通じる英語だと思う。Rの発音もクリアに聞こえる。

彼自身も、デビュー前からゆくゆくはグローバルに活躍できるミュージシャンになりたいと思っていたので、YouTubeにて英語で語るのは当然であろう。

 

楽曲「優しさ」について英語で語る藤井風 

彼を知ったきっかけは「もうええわ」のPVに出会ったことだ。

動画を視聴し、ブレイク前のサチモスに出会ったときの衝撃を思い出した。いや・・・それ以上の衝撃を感じて、風くんの他の動画を貪るように視聴して完全にノックアウトされた。

 

Twitterでさりげにグッズ紹介もw

ライブでの輝きざま

彼のライブのショートムービーを観れば新人とは到底思えない、重厚なオーラが感じられる。

彼が新型コロナウイルス感染拡大の影響で6/4〜5のZepp Namba、6/26〜27のZepp Tokyo ”NAN-NAN SHOW 2020" の公演中止を受けて、ファンのために急遽配信したのがピアノ弾き語りライブである。

岡山の自宅から、ラフな格好(ボトムスは高校ジャージ)で床に置かれたキーボードをうんこ座りや立て膝でグルービーに弾きまくり、ファンキーにエモーショナルに唄いまくる姿は、ちょっと格好良すぎでずるい。(笑)

この弾き語りスタイルは「もうええわ」のPVにて、ホームレスの風情で地べたに置かれたキーボードを弾く場面でも使われている。

kaze

それでも、ゆる〜いほのぼのとした岡山弁で語られると嫌味を感じない。(笑)やはりずるい。

ともあれ、藤井風くんは音楽界の大谷翔平くんともいうべき、希望の存在ではないかと思う。

ブレイク確実の超大型規格外新人であることは間違いない。

風くんはもうひとり、まだ学生ながらもハイパークリエイティブなセンスを煌めかせて、こちらもブレイク確実と勝手に思っているVaundy、通称バウくんとも仲が良く、互いをリスペクトし合っていることが両者の発言から伝わってくる。

日本の音楽界の将来は、明るいだろう。

 

 

 

ブロガーバトンを頂いた件

ブログ仲間のJM1IHU (id:radiomusic)さんから、ありがたくも「ブロガーバトン」なるものを頂戴した。

 

ちょっと仕事が忙しくて半月以上経ってしまったが、やっと書くことができた。

 

ブロガーバトン

 

一番古い記事

 

一番最初の挨拶がわりの記事である。今読めばとてもシンプルだ。

 

www.eigonodogutman.com

 

お気に入りの記事

 

ビートルズの曲の中でもとりわけ好きな「ヒア・カムズ・ザ・サン」の誕生の逸話を描いたもので、寡黙なジョージの毅然としたひと言の重みを表現したかった。

 

www.eigonodogutman.com

 

バトンタッチ!

 

クッキング父ちゃん (id:kukking10chan) さん

 

 孤高の矛盾ダイエット&炎のグルメブロガーさんです!

 

www.kukking10chan.net

 

雪猫 (id:yukinekokei)さん

 

謎のスノーボーダー面白熟女ブロガーさんです!

 

www.yukinekokeikatsu.com

 

ネエサン (id:kyobachan)さん

 

おそらく同世代?の エネルギッ主婦ブロガーさんです!

 

kyobachan.hatenablog.com

 

小売り50 (id:kouri50)さん

 

心優しいバイカー若パパブロガーさんです!

 

kouri50.hatenablog.com

 

ふつ映(singark07) (id:singark071781)さん

 

映画と大泉洋さんが大好きなブロガーさんです!

 

singark071781.hatenablog.com

 

最後にテンプレート!

 

 

 

ジャズギター物語!第1章 民衆の生活に根差した楽器 #4

BBKING

 

ポルトガルと、それに続くスペインの植民地の展開によって、南米や中国、そして北米にもギターが伝わっていった。

アメリカにおいて、フォークソングやカントリー・ミュージックに続いて音楽スタイルを完成させたのがブルースである。ブルースは1863年の奴隷解放後に黒人が、疎外感を歌とギターに託して紡ぎ出した音楽であることは広く知られている。

 

ブルースはギターとともに

初期のブルースはギターの弾き語りスタイルが基本だった。ブルースシンガー&ギタリストとしては、憂歌団の木村充揮が心の師と仰ぐミシシッピ・ジョンハートやブラインド・レモン・ジェファーソン、レッド ベリーなどが輩出する。

この頃、ブルース特有の物悲しいトーンであるブルーノート(音階の第3音と第7音がフラットした音)が生まれた。そのブルーノートが現代の音楽において、極めて重大な要素を担うようになっていくのである。

 

その後、第1次世界大戦を経て、シカゴを中心として「アーバン・ブルース」と呼ばれた都会的なブルースが、ジャズの影響を受けながら広まった。

 

その担い手がT ボーン・ウォーカーやB.B.キング、バディ・ガイやフレディ・キング、アルバート・キング、ローリング・ストーンズに影響を与えたマディー・ウォーターズなどのプレイヤーである。

 

不世出のブルース・ギタリスト

B.B.キングに関しては、もうそれだけで一冊の本でも収まらないぐらいの不世出の偉大なるブルースマンであり、ブルースギタリストである。エリック・クラプトンのスローハンド奏法も、そのお手本は間違いなくBBキングであると断言できる。

 

20世紀後半の音楽界で、ブルースはもちろん、ロックやジャズのギタリストで BB キングの影響を受けていないギタリストはほとんどいないのではないだろうかと思われるくらいである。

いわゆるロック三大ギタリストと言われるエリック・クラプトン、ジェフ・ベック、ジミー・ペイジ(異説もあるが)はことごとくB.B.キングのプレイにインスパイアされているのは、音を聞けばわかる。


1980年のジョン・ランディス監督によるゴキゲンなアメリカ映画『ブルース・ブラザース』ではB.B.キングとエリック・クラプトンが劇中で一緒に演奏をしている。

 

 

 そしてジェイク・ブルース(ジョン・ベルーシ)とエルウッド・ブルース(ダン・エイクロイド)の兄弟が飛び入りでセッションする名シーンがこれだ。

 

 

余談だが、ジョン・ランディスは翌1981年のホラー映画『狼男アメリカン』で脚光を浴びたのがマイケル・ジャクソンの目に止まり、翌1982年に『スリラー』のプロモーションビデオの監督を務めて全世界を震撼させた。

 

 

『ブルース・ブラザース』には彼ら以外にも レイ・チャールズやチャカ・カーン、ウィルソン・ピケットやアレサ・フランクリン、そしてファンクの帝王JBこと ジェームス・ブラウンなどのそうそうたるミュージシャンが登場している。

ちなみに、映画監督スティーブン・スピルバーグもクック郡収税課職員で出ている。

 

宇崎竜童を泣かせたチョーキング

さて、B.B.キングがデビューしてから、彼を一躍有名にしたのはなんといってもブルース・ミュージックとしての史上初の大ヒット曲「スリル・イズ・ゴーン」である。この泣きのギターは多くの人の胸を揺さぶった。

 

あの宇崎竜童は、若き日にB.B.キングの来日公演に行った。彼はオープニング曲だった「スリル・イズ・ゴーン」の一発目のチョーキングの音色を聴いて、理由はわからないが涙が溢れて仕方がなかったと述懐している。

 

筆者も学生の時に、B.B.キングとフレディ・キングとバディ・ガイという3人の偉大なアーバン・ブルースの旗手が揃って来日した折に、そのゴージャズなコンサートに行くことができた。

それぞれの演奏はたしかに圧巻であったが、やはりB.B.キングは別格だった。

 

晩年の演奏も、圧倒的な貫禄とソウルがこもったプレイに絶句してしまう。

 

 

B.B.キングが愛した「ルシール」

彼は歴代の、使用したそのギターを「ルシール」と名付けていた。

 

最も愛用したギターは1959年に発売されギブソンのES-345(ES=エレクトリック・スパニッシュ)である。セミ・アコースティックギターとして最も有名な名器ES-335の上位機種だ。

ゴージャスなルックスを持っており、パーツ類はゴールドで統一され、ES-335の質素な装飾類も、ES-345では華やかになっている。

 

ES-335になくてES-345の最大の特徴ともいえるのが、バリトーン・スイッチだ。6種類のトーンを選択でき、1から6へ数字が大きくなるにほどローカットの度合いが大きくなって、よりカリカリした音になる。

 

ルシール

 

1959年当時はエフェクターなどなく、ギターはアンプ直結が基本だった。当時のギター・サウンドは、せいぜいアンプのトーンを硬めか柔らかめに設定する程度しかできなかった。

そんな状況でのバリトーン・スイッチはB.B.キングのサウンド作りに大きく貢献するとともに、ギブソンの先進性を示していた。

 

ところで、「ルシール」の由来が興味深い。1940年代に、実際に起きた事件に由来している。

当時、彼が出演したクラブで火災が発生した。彼は燃え盛る炎の中から、なんとか大切なギター(ギブソンES-345ではない)を持ち出すことができた。 

火災の原因は、どうやら二人の男性の「ルシール」という女性をめぐる争いが発端だということがのちに判明する。

 

彼はそのことを知って、女性のために馬鹿げた争いなど起こすまいという戒めを込めて、あえて「ルシール」と名付けたのだ。

 

  
〜ジャズギター物語!第1章 民衆の生活に根差した楽器 #5に続く〜

 

 

ジャズギター物語!第1章 民衆の生活に根差した楽器 #3

チャランゴを弾く男

 

ポルトガルという国は早くも1436年に、アフリカ人奴隷を首都であるリスボンに送っていた。15世紀半ば以降、活発に海外進出を図っているのがポルトガルなのだ。

 

スペインはポルトガルに少し遅れて海外進出をすることになる。いわゆる植民地政策だ。どちらの国も、初期は南米そして中国への進出、その後は北米などへ進出していった。

 

15世紀後半からは南米のコロンビア・ベネズエラ・ブラジルとアンデス山脈の国々であるエクアドル・ペルー・ボリビア・パラグアイ・チリ・アルゼンチンなどの、いわゆるインカ音楽を基礎に持つ国々へ進出していった。

 

このシリーズは植民地の歴史を紐解くものではないのだが、ギターに関して伝えておかなければならないことがある。

 

  

植民地とギター

スペインの進出の際に、これらの植民地にはギターも同時に伝えられたのである。

 

アンデス地方の音楽の中で必ず登場する「チャランゴ」は、スペイン人が持ち込んだギターを欲しがったアンデス人のインディオたちが、ギターに似せてアルマジロの甲で胴体を作って出来上がった楽器なのである。

 

チャランゴ画像

 

またロス・インディオス(パラグアイ)の名曲「カスカーダ」で有名なアルパ(インディアン・ハープ)はハープから発想されて作られた楽器だと言われている。

 

 

その後のスペインは16世紀に、メキシコ・グアテマラなど中米とキューバなどのバハマ諸島へ進出した。これによってギターは中米諸国にも伝わっていったのである。

 

そして17世紀初期に北米に進出することによって、ギターも同時に伝わっていった。17世紀半ばに入ってからは、ハワイなどのポリネシア地域にもギターは伝わってゆくことになる。

 

やがてそれが、この地方でウクレレが生まれるきっかけとなった。

 

ギターが深く関わった音楽

このように伝播していったギターは、世界各地でどのような音楽に関わっていったかに目を向けてみよう。

クラシック

ヨーロッパ全土に広がっていったギターは2種類のギター音楽を完成させることになる。そのひとつがクラシックギター音楽である。これはスペインのタレーガが演奏法の基礎を開発し、後にセゴビア、ポンセなどを輩出した。

フラメンコ

ヨーロッパに伝わったギターが深く関わった音楽のもうひとつがフラメンコだ。フラメンコ・ギターとクラシック・ギターのそれぞれの奏法が、後にメキシコやブラジルなどに伝わっていったのである。

カントリー・ミュージック

フォークソングとカントリー・ミュージックは、アメリカ独立戦争の頃(1776年前後)に、アパラチア山脈方面へイギリスの民謡が伝わったのがそのルーツだと言われている。

 

この音楽にギターが大量に持ち込まれたのは、1833年にC.F.マーチンのギターがドイツからアメリカに伝わったことによるものだ。

 

この頃にはほぼアメリカン・ミュージックとしてのカントリー・ミュージックも完成しており、そしてそれは現在まで脈々として受け継がれ、アメリカの白人にとって心の音楽とも言われている。

 

ご存知の方も多いと思うが、ポップス界のスーパースターであるあのテイラー・スウィフトも実はカントリー・ミュージックの出身である。

  

フォークソング

一方、フォークソングは民謡として伝えられたままのフォーマットで、ほとんどスタイルを変えることなく、発展もなく受け継がれてきた。後にC.F.マーチンと肩を並べるギターメーカーであるギブソンのフォークギターが1894年にメキシコ経由で伝わった。

 

特に1898年の米西戦争(アメリカ合衆国とスペインの戦争)以来大量に、そして比較的安価に手に入るようになった。そしてフォークソング・ミュージックの中心的楽器となったのである。

 

現在でも、カントリー寄りのミュージシャンはマーチンのドレッドノートを好み、フォーク寄りのミュージシャンはギブソンのアコースティック・ギターを好むのは、当時の名残りではないだろうか。

フォーク・ムーブメントと『いちご白書』

そして1950年代の終わり頃に、ハイスクールやカレッジでのフォーク・ムーブメントによってフォークがリバイバルしたことはよく知られている。

 

その流れはアメリカ人作家ジェームズ・クネンによる小説であり、映画化もされた『いちご白書』に色濃く感じられる。

 

この話はクネンが19歳の頃の、在籍していたコロンビア大学での1966年から1968年までの体験、とりわけ1968年の抗議行動と学生による学部長事務所の占拠についてのエピソードだ。

 

映画はクネンの原作を元に、1960年代の学生闘争を描いたフィクション映画として1970年に公開され、カンヌ国際映画祭審査員賞を受賞した。

 

『俺たちに明日はない』や『イージー・ライダー』と肩を並べるアメリカン・ニューシネマとして歴史に残る名画である。

 

筆者もリアルタイムではないが、学生時代にある大学の文化祭で『いちご白書』の上映会があった時に参加して、観る機会を得た。

 

若者のピュアでしかし屈折したエネルギーと権力への怒り、無力感と失望、そしてその向こうにあるのかないのかわからないけれどあって欲しい希望を描いたラストシーンは素晴らしかった。

 

音楽も良かった。フォークベースの曲が主に使われていたが、劇中で流れる「サムシング・イン・ジ・エアー」(サンダークラップ・ニューマン)、「ヘルプレス」(クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング)などを始め、いずれも映画に溶け込んでいた。

 

とりわけ終盤での「Give Peace a Chance」(ジョン・レノンがプラスティック・オノ・バンド名義で書いた曲)を、講堂に立てこもった学生たちが手を打ち床を叩き歌うい上げるさまには、当時学生だった筆者に熱いものがこみ上げたものだ。

 

ジョン・レノンのゴキゲンな演奏もどうぞ。

  

  

ちなみに、この映画の主題歌はジョニ・ミッチェルが作詞作曲したフォークテイストの名曲「サークル・ゲーム」を、バフィ・セント=メリーが1967年にカバーしたバージョンが使われている。

 

 

少し横道にそれたが、ギターの変遷とそれが関わった音楽で次にくるものは、いよいよ・・・ブルース、そしてジャズである。

 

それは次回の楽しみとして頂こう。

 

 
〜「第1章民衆の生活に根差した楽器 #4」に続く〜

 

 

ジャズギター物語!第1章 民衆の生活に根差した楽器 #2

キタラ


胸に抱く楽器

            by Masa 

 

その昔

数奇な運命を背負った

ジプシーや

ブルースマンたちは

ひとりとして

富めるものはなく

病めるなかで

その楽器を爪引き

怒りの果てにある悲しみを

静かにそして熱く

愛に変えてきた


彼らが

胸に抱いていた楽器こそ

天のように広びろと

地のように大らかに

風のように清すがしく

海のように深い

その響きを通して

ひとびとの心を包み込む

さすらいの楽器

 

それがギター

 

CONTENTS

www.eigonodogutman.com

 

前回のギター物語の第1章をアップした直後に気づいた。

『まずい・・・こ、これは・・・と、とんでもないシリーズを始めてしまった・・・』と。

 

第1章を書き始める前の構想はこうだった。
まずギターとはユニークな楽器であることをマクラとしてスタートして、第2章からジャズギター草創期の始祖鳥的存在である「チャーリー・クリスチャン」、第3章では異色の偉大なるギタリスト「ジャンゴ・ラインハルト」について書こう、と。

 

そして第4章からは、それらの先人たちにインスパイアされたギタリストが続々と出てくる様を、それぞれのギタリストにフォーカスしながら時系列をベースに書こうと漠然と考えていた。

 

それでも連載回数10回は軽々と超え、5万文字以上のシリーズにはなるだろうと。

 

しかし、である。

歴史に残るギタリスト列伝の幕開けのマクラが「ギターという楽器があり、ジャズという音楽で使われ始めました。さて初期の演奏者は・・・」などと簡単に始めることが、よくよく考えれば筆者の性格上できない。

 

人生の元手に向き合ったものとして腰を据えて書くつもりなので、やはりまずはギターというもののルーツから書き起こすべきだという風になってしまう。

ということで、まずギターという不思議で魅力的な楽器の生い立ちを書こうと思うが、これだけでも何回かの分載になりそうだ。

 

それ以降も、チャーリー・クリスチャンはともかくジャンゴ・ラインハルトなどは、到底一回で済むものではない。

そんな訳で10回どころでは終われない、長い長いシリーズになっていくと思う・・・。よっぽどギター音楽やジャズに興味を持つ読者にしか読んでもらえないかもしれないコアな物語になるだろう。

 

まぁ、多様性が世界を彩りゆく時代の流れからすれば、それも悪くないだろう。

ともあれ、本来第2章になる予定であった本稿も、第1章の#2となる。遡って前回は「#1」とタイトルに付加してある。


ギターの語源はギリシャ語の「Kithara」


前置きが長くなったが、そもそもギターとはいつ頃どこで生まれた楽器なのか、どのようにジャズ楽器のひとつになったのかという話を書こう。

 

ギターは弦楽器の中でも、非常に古い歴史を持っている。古代ギリシャ時代には、ハープとともにその原型が存在していた。15世紀頃にスペインに伝わり、16世紀頃には現在のような形になったとされている。

 

余談だが、ジャズでよく使用されるギブソン製のフルアコースティック・ギターやセミアコースティック・ギターの品番は「ES-175」や「ES-335」など「ES」が付いている。これは「エレクトリック・スパニッシュ」の略なのだ。

 

さて、15世紀頃に地中海の北岸を放浪していたジプシーと総称される移動型民族のひとつであるロマ族が、ギリシャからイタリアにも伝わっていたギターの原型を、スペインに持ち込んだ。

 

ロマ族

当時のイタリア語でChitarra(キタラ)と呼ばれていたその楽器の名が訛って伝わり、スペイン語でGuitar(発音はギターラあるいはギターレ)になったとされている。 

ギターと親戚のような弦楽器「ツィター(チター)」もこのイタリア語のChitarraから来ている。ツィターは名優オーソン・ウェルズが主演の名作映画「第三の男」のテーマ曲において、アントン・カラスの演奏で有名になった楽器である。

 

ツィター

ツィター

ところが、イタリア語のChitarra自体にも元があった。ギリシャ語のKithara(キタラ)である。これは「胸」を意味する。

なぜ胸なのか?ギターが現在のようなサイズ感になったのは、スペインで作られるようになってからであり、それ以前はずっと小さく、奏者はそれを胸の前で抱き抱えるように奏でていたのだ。形状も見た目はハープに似ていた。

 

キタラ

キタラ

整理するとギリシャで「胸」という言葉を使って「胸に抱く楽器」という意味からKitharaと呼ばれ、それが訛ってイタリアでChitarraになり、さらに訛ってスペインやポルトガルでGuitarとなったというのだ。

まがりなりにもギターに馴染んできた筆者自身も「胸に抱く楽器」という語源はしっくりくる。

 

地中海で生まれたギター

 

そのギターには、世界の各地に前述のツィターやハープ、あるいはリュートなどの似た楽器があり、それらとのインタラクティブな影響はお互いにあったと思われる。

リュート

リュート

それでもなお、ギターのアイデンティティ自体はギリシャ時代に地中海地方で出来上がっていて、それが徐々に洗練されていって完成したと考えられる。

 

高度な文明が成立する地域には、必ずと言っていいほど高度な文化が誕生する。中でもギリシャ時代は哲学や数学、物理などの学問と同時に、絵画や音楽などの芸術が人類の歴史で初めて急速な進歩を遂げた事実がある。

 

つまりそこには、高い知性に裏付けられた高度な技術が生まれていたということだ。

 

また、地中海の北岸一帯は自然に恵まれていて、現在の弦楽器と呼ばれるもののほとんどはこの時代にこの地方で生まれている。

これはひとえに、この地中海北岸エリアの気候が温暖であり、適度の降雨があることによって、弦楽器を作るために必要な樹木が豊かに採れるからだ。

 

さらには、一方に地中海、一方にアルプス山脈を控えていることにより、木の年輪の出方が地中海側とアルプス側で全く違う。地中海側は年輪の幅が大きく、肥えている。アルプス側は幅が狭く緻密な成長を遂げているである。

 

良質な楽器を作るためには、この緻密な部分が活躍する。バイオリンには歴史に残る名器が多く誕生しているが、それらはほとんどがイタリア製である。

 

それはイタリア人がずば抜けて器用だという理由だけではない。イタリア北部のアルプス地方では、前述のような自然環境により樹木の成長が遅く、より緻密な材木が採れたたからである。

 

このように、楽器を作るために打ってつけの材料と、高度な技術などの、良質な楽器を作るすべての条件が整ったのである。

その技術の中には、動物の体内にあるニカワ質を煮込んで作る接着剤「ニカワ」の製造技術などの多くの卓越した技術が含まれている。

 

古代ギリシャ時代に誕生したギターは、放浪の民族ロマとともに世界に旅立ち、フラメンコをはじめ各地の民衆の音楽に深く入り込んでゆくことになる。

 

 
〜「第1章民衆の生活に根差した楽器 #3」に続く〜

 

 

ジャズギター物語!第1章 民衆の生活に根差した楽器 #1

ラーゲルンド

コンテンポラリージャズの代表的ギタリスト:Lage Lund

 CONTENTS

 

はじめに

筆者はジャズミュージックが好きであり、自分自身もギターでジャズを奏でる。青年時代の一時期、プロのジャズギタリストになることを目指したことがある。

 

当時、昼はアパレルメーカーの営業マンとして働きながら、夜はジャズスクールに通っていた。結局はビジネスの方にどっぷりとハマり、ギターで飯を食う夢は実現できなかった。

 

とはいえ、もうひとつの夢であった物書き稼業で飯を食うことができているので、自分ではよしとしている。

 

さて、ジャズといっても現代は非常に多様化しており、また音楽の垣根も取り払われているが、それでもジャズは変わらずクールなテイストを持ち続けている。

 

さまざま楽器のジャズプレイヤーもまた、その楽器の持ち味を活かしつつ現代的なジャズミュージックを紡ぎ出している。

 

筆者はジャズの楽器の中で、サックスも大好きであるし、ピアノにもしびれる。ベースもドラムスも然り。その中でもやはり自身も奏でる楽器であるギターには、ダイレクトに心動かされる。

 

せっかく物書きになったのだから、ジャズギターと言う人生の元手の一部分に真摯に向き合ったものを執筆しようという気持ちに、最近ようやくなった。

 

そこで、ジャズギターの草創期から現在に至るまでのヒストリーを、教科書的なものではなく、物書きとプレイヤーの目線で、なおかつ音源もふんだんに紹介しながら綴っていこうと思う。

 

おそらく連載として10回を超え、文字数も5万から10万レベルの長いシリーズになるかと思われるが、ぜひお付き合いいただきたい。

 

 

第1章 民衆の生活に根差した楽器

 

思えばギターほど、さまざまなジャンルの音楽で使われている楽器も珍しいのではないだろうか。

 

クラシックはもちろん、ポップス、カントリー、フォークソング、ボサノバ、フラメンコ、ロック、ブルース、そしてジャズ・・・他にもいろいろあるだろう。

 

世界中のありとあらゆる国や民族に普及し、その音楽に深く浸透している。比較するのはおかしいかもしれないが、トロンボーンやクラリネットでは到底考えられないことだ。

 

それほどギターという楽器は民衆の生活に深く結びついているのだろう。

 

この理由を考えると、まず取り扱いが簡単であり、そして歌の伴奏に向いているということではないだろうか。音楽の素人がピアノやサックスをマスターしようと思ったら、それなりの努力が必要である。

 

もちろんギターも高いクオリティを目指す場合は同様ではあるが、単に歌の伴奏だけでよければ、基本的なコードを押さえやすい形でいくつか覚えさえすればよいのだ。

 

それだけでシンプルな曲は弾きこなせるようになる。弾き語りだって、比較的簡単にできる。

 

伴奏が簡単だということは非常に重宝する特徴である。人を巻き込んでセッションが簡単にできるのだ。音楽のもつ本源的な楽しさを、いとも簡単に体感できる楽器といえよう。

 

一人で黙々とトランペットを練習することと比べて、楽しさという点ではギターの方がはるかに味わいやすいのは事実だ。

 

しかしながら、手軽にできる楽器の宿命として、ギターを奏でる者たちの音楽的素養はといえば、他の楽器と比べて、すべてではないが一般的に浅いことも否めない。

 

何しろ譜面が読めなくても弾ける楽器である。そこは決定的に他の楽器と違うところだ。私はギターが弾けますという人の中で、楽譜を初見で読める人がどれほどいるだろうか。

 

ギター伴奏でコードをかき鳴らしていて、それが何の音なのかわかっていない人がほとんどだ。もちろん、それ自体は決して悪いことではない。

 

またギター以外の楽器は、ひとつの音に対応する箇所、あるいは弾き方はひとつしかないが、ギターは同じ音が大抵3箇所ぐらいで出せるのだ。

 

つまり、ピアノやサックスは押さえるキーが一列に並んでいて、五線譜と結びつけやすいが、ギターは勝手が違う。そういうことも手伝って、一般的にギター弾きは譜面に弱い。

 

しかしギターにはとんでもない強みがある。例えばピアノやサックス、トランペットなどで、曲のキーを半音上げて演奏しようということになると厄介である。ギターは全体的に1フレット分、右にずらして弾けばよいだけだ。

 

思いつくまま書いたが、概ねそのような特徴がある面白くも民衆の生活に根差した楽器、ギターが奏でるジャズの世界を、これから歴史を紐解きながら語っていくことにしよう。

 

〜「ジャズギター物語!第1章 民衆の生活に根差した楽器 #2」に続く〜

 

 

www.eigonodogutman.com

 筆者のイチ推しギタリスト:ラーゲ・ルンド

「転職面接5本軸で完全制圧」マナー服装自己紹介逆質問?すべて解決

本画像

 

大変久しぶりの投稿になる。

特にアクシデントやトラブルがあったわけではない。単にライター稼業の方が多忙さを増し、調子に乗ってすべて引き受けてきたのでとてもブログを更新する余裕がなくなり、このように空いてしまったのである。

今後もペースは以前ほどは無理かもしれないが、ブログをやめる気は毛頭ないことをお伝えさせていただく。休眠ブログとして紹介いただいたりしているが、本人は休眠という意識もない。(笑)

音楽や小説に関して、書きたいことは色々あるので、またおいおいコラムにしていこうと考えている。

 

 

転職者のための面接読本「転職面接5本軸で完全制圧」を発刊 

今回のキンドル本はいつもとは少し角度が違う。というか、これまでもジャンルは節操がなかったので、同じか・・・。

 

 

amzn.to

Amazonの紹介文

コロナショックを経験することよって世の中の価値観が、根底から大きく変わらざるをえない時代になりました。そんな混迷の時代の中で、転職活動が今後も盛んになることが予想されます。また、新卒の方々が入社した企業が自分の資質や人生の目的に合致するなら、それは素晴らしいことです。しかしながら、そうでない場合も往往にしてあることでしょう。

 

人生で初めて所属した企業に固執せず、新しい職場を求める自由度も環境もまた一昔前に比べればよくなりました。もちろん、それだけに魅力ある企業への転職はライバルもまた増えることを意味します。転職の選考は新卒の選考とはさまざまな意味においてポイントが違います。筆者はライターを始める以前には企業で取締役を務め、採用担当も経験してきました。

 

その筆者が、企業人生の経験と面接官目線も含めて、転職の選考に臨む方々にとって本番の「面接」を完全制圧し、合格を勝ち取るための対策を構築しました。その作業の中で、転職活動における合格から逆算すると、さまざまな活動の要諦も「準備」「書類」「服装」「時間」「印象」という「5本軸」に収斂することが判りました。

 

この書籍はその5本軸に基づいて、リアルに、実践的に勝利のためのすべてを解説しました。混迷の時代に転職活動に勝ち抜くための糧としていただければ、これほどの幸せはありません。

 

MASA

 

 

転職面接にふさわしいスーツやマナー、面接本番の流れも網羅

筆者の企業時代の専門分野である服飾の面からも、新卒の面接とは別の転職面接ではスーツはこうあるべきという例や、押さえておきたいマナーもできるだけ網羅した。

 

不慮の事態の電話連絡の仕方や、日程変更依頼メールの書き方など、徹底して実践で起こりえる局面を想定して書いている。転職面接のハンドブックとしては、役に立つと確信している。

 

現代面接のトレンド「逆質問」の意味合いや利用法まで

現代の面接でのひとつのトレンドともいえる「逆質問」、つまり、面接官が「あなたの方から何か質問はあるますか?」というクセモノ項目がある。ここでつまらないことを聞くと評価は下がってしまう。

 

この逆質問を設ける企業サイドの思惑や、それを利用して好印象を勝ち取れる考え方や具体例も詳述してある。できるだけわかりやすい事例とともに、カタチにした一冊である。

即戦力となる実践的なテクニックも含まれているので、現在転職活動中の人はぜひ参考にしていただきたい。

 

とにかく面接という舞台で最高のパフォーマンスをするための「智慧」を織り込んだキンドル書籍となっているので、ご自身が転職活動していなくても、そういう知り合いがいたら、ぜひこの書籍を紹介していただければ幸いである。

 

 

 読み放題対応!登録後1ヶ月は無料

(1ヶ月手前で辞めるのもOK)

  

ビートルズ売出し中を意味する題と裏腹に深い名曲揃いの過小評価されたアルバムとは?

ビートルズ画像

Beatles For Sale

アルバム・フルプレイリスト 

 Contents

 

Sponsored Link Advertising

 

 

息つく暇もない過密スケジュールの中で

 

ビートルズが初主演映画と連動した初期の最高傑作の誉れ高いアルバム3rdアルバム『ハード・デイズ・ナイト』をリリースしたのは1964年7月10日だが、その日彼らは故郷リバプールで同名映画のプレミア・ショーに出演した。

 

しかも同日にテレビの生出演、その翌日もテレビ出演収録、翌日はコンサート・・・そんな風にスケジュールに追われる日々が4thアルバムの録音開始日の前日、8月10日まで続いたというから、ブレイクぶりは半端ではなかった。

  

それでも『ハード・デイズ・ナイト』リリースの1ヶ月後には次なるアルバムの制作を始めなければならないのは、年間2枚のアルバムを出すというEMIとの契約があったからだ。

 

さらにはその新アルバムは同年のクリスマスシーズンに向けてリリースされる予定でもあり、超過密スケジュールの合間を縫っての強行軍のレコーディングとなった。

 

Sponsored Link Advertising

  

オリジナル曲への情熱滾るジョンとポール

 

アルバム収録が始まり本来のミュージシャン生活に戻るのも束の間、8月19日から9月21日まではアメリカでのハリウッドボウル公演を含む大規模な北米ツァーで録音は中断することになる。

 

そのような凄まじく多忙な日々の中でも、ジョンとポールは積極的にオリジナル・チューンを書いた。

 

さすがに前作『ハード・デイズ・ナイト』のような全曲オリジナルというわけにはいかないが、それ以前のアルバムのオリジナルとカバー曲のバランスと同様、14曲中8曲のオリジナルをアルバムに収録した。

 

その8曲がまた、何とも味わい深い名作・佳作揃いだ。

 

 

 

一般的にはこの『ビートルズ・フォー・セール』というアルバムの評価は、彼らのアルバム群の中では低めである。 

 

「ビートルズ売り出し中」という意味の軽めのタイトルのせいなのか、はたまた『ハード・デイズ・ナイト』という華々しいヒットアルバムと、話題の映画主演2作目の『ヘルプ!』と連動したアルバムに挟まれたせいなのか?

 

たしかに派手さはないが、むしろアイドルから脱皮し、弱さも抱える人間味ある青年たちのアルバムとして秀逸である。そういう意味でとても素敵なアルバムであり、筆者も個人的には前作より好きである。

 

Sponsored Link Advertising

   

ビートルズ内の「ディラン・ブーム」⁉️

 

この『ビートルズ・フォー・セール』にはフォークの大御所であり最近ではノーベル賞受賞で話題にもなったボブ・ディランの影響が色濃く見られる。

 

それはサウンド面でもフォークロック風の曲が多いという意味もあるがそれ以上に、歌詞が内省的なものが多く、それまでのどちらかといえばシンプルなものから、人生観や世界観の深みがある曲が増えている。

 

とりわけジョンの書く歌詞がそうだ。自分自身の弱さや煩悩を隠さず、赤裸々に綴ったものが多い。

 

その発端は1964年の1月のパリ公演の折に、地元のラジオ局からインタビューを受けた時に、ポールがインタビュアーからせしめたボブ・ディランの2ndアルバム『フリー・ホイーリン』にある。

 

 

このアルバムを聴き終わるや、興奮したジョンはポールと連れ立って街に繰り出し、ディランのファーストアルバムを購入した。

 

 

その日以降、彼らの中で「ディラン・ブーム」が起こり、3週間に及ぶパリ滞在の間ずっと、その2枚のディランのアルバムを彼らは聴きまくったという。

 

Sponsored Link Advertising  

  

音楽史を彩ってゆく出会い

 

そして翌月2月のアメリカ・ツァーの時にディランと出会うことができ、彼らの親交が始まる。ディランに深く傾倒したジョンだけでなく、ジョージにおいては後にディランと深い友情を築くことになる。

 

1971年8月にジョージはシタールの師匠ラヴィ・シャンカールとともにロック史上初めてのチャリティコンサート『バングラデシュ難民救済コンサート』をマディソン・スクエアガーデンで挙行した。

 

エリック・クラプトンをはじめとした錚々たる顔ぶれのミュージシャンがノーギャラで参加したが、その中で最も大御所はボブ・ディランであった。

 

ビートルズ画像

 

 

そういった数々の音楽史の出来事にもつながる源流が、このアルバムにはあるのだ。『ビートルズ・フォー・セール』を未だ熟聴していない音楽ファンの方は、ぜひ一度耳を傾けて頂きたい。

 

このブログにて、今後しばらくは『ビートルズ・フォー・セール』の珠玉の名曲について語っていこうと思う。

 

 筆者のビートルズKindle本

 読み放題対応!登録後1ヶ月は無料

(1ヶ月手前で辞めるのもOK)

  

初期ビートルズ最高傑作アルバムを掘り下げたキンドル本を発刊!プロローグを全文掲載

ビートルズ画像

 

アルバム『ハード・デイズ・ナイト』フルプレイリスト  

 

 Contents

 

Sponsored Link Advertising

 

 

Read The Beatles /A Hard Day's Night  

 

革命的音楽集団「ビートルズ」にとって1964年は、一気に世界的アーティストとしてブレイクした最も多忙な一年だった。

 

なにより世界最大のマーケットであるアメリカ合衆国で火が点いて、二度の遠征をおこなった。そして主演映画『A Hard Day's Night』に初出演し、同名アルバムも初期の最高傑作として大成功を収めた。

 

この書籍はアルバム『A Hard Day's Night』の制作に絡んだ秘話・逸話を最新の情報とともに綴りあげたものだ。以下「プロローグ」を全文掲載しておこう。

 

  

Sponsored Link Advertising

  

プロローグ

前代未聞の多忙さだった1964年

 

1964年はビートルズにとって、最も忙しい一年だった。

1月のパリ遠征、2月と8月の2回のアメリカ遠征の合間を縫って映画撮影やレコーディング、デンマークやオランダから、香港・豪州・ニュージーランドの英連邦各国におけるコンサートも敢行した。

 

また7月には主演映画『A Hard Day's Night』がイギリスから公開が始まり、その後日本では『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』とのタイトルで公開された。8月の2回目の渡米はアメリカ遠征とカナダを含めたいわゆる北米ツアーとなる。

 

秋には本国イギリス内での演奏活動、年末にクリスマス・ショーで一年の幕を閉じたのである。


そんな超多忙な一年のなかで、全米チャートを1位から5位まで同時に独占するという、彼らが打ち立てた素晴らしい記録について掘り下げてみよう。

 

Sponsored Link Advertising

   

草の根からメジャーに

 

1963年も押し迫った12月26日、ローカルラジオで掛かる英国盤の異常な人気にブレイクの兆しを感じたアメリカのキャピタル・レコードが、翌年に予定していた発売日から繰り上げてビートルズのシングル盤「I Want To Hold Your Hand」をリリースした。

 

年が明けて1964年の1月18日に全米ヒットチャートのトップに躍り出るや、2月の2週間余りのアメリカ遠征の折には、コンサートの合間を縫ってアメリカで最も有名なバラエティTV番組「エド・サリヴァン・ショー」に出演した。

 

この前の年の本国イギリスにおける、英国王室も演芸会を主催するほどの由緒正しく権威のあるロンドン・パラディアム・シアターへの出演、並びにテレビ中継による反響も相当大きかった。

 

しかしながら、エド・サリヴァン・ショーに出ることの伝播力はさらにその十倍以上はあったと思われる。

 

実は、このエド、サリヴァン・ショー出演にはサイドストーリーがあった。

 

Sponsored Link Advertising  

  

ヒースロー空港での遭遇

 

エド・サリヴァンは前年の10月にイギリスのヒースロー空港で、スウェーデン遠征から帰国したビートルズとそれを迎える熱狂的なファンの姿を、偶然目の当たりにした。

 

デビュー直後のエルヴィス・プレスリーのスター性を見抜いて早々とテレビの「ブラウン管」に登場させ、大ブレイクのトリガーを弾いた海千山千のエド・サリヴァンのことだから、閃くものが当然あったのだろう。

 

いや、そもそもエドならずとも、全く予備知識なしであっても当時のファンの熱烈な歓迎を見るに及んだ者なら誰しも、その四人の若者たちに何かとてつもない大きな力を感じたのかも知れない。

 

ともあれ、ヒースロー空港の一件があっての、エド・サリヴァン・ショーへの招待となったのである。こういうことをひとつとっても、ビートルズは確かに「持って」いたのだとの感銘を禁じ得ない。

 

Sponsored Link Advertising

 

 

視聴率70%超を記録したTV初出演

 

エド・サリバン・ショーに颯爽と登場したビートルズであるが、初登場の2月9日は凄まじく、70%を超える前代未聞の視聴率を獲得し、業界の伝説・・・今で言えば真の「神回」となった。

 

その桁外れのビートルズの影響力を示すエピソードのひとつに、当時のアメリカで一番著名なキリスト教福音伝道師ビリー・グラハムにまつわるものがある。

 

厳格なグラハム師は戒律もストイックに遵守する信徒の鑑たる存在ではあるが、ビートルズがエド・サリバン・ショーに出演する日ばかりは戒律を破り、テレビを喰い入るように観たと伝わっている。

 

これが事実かどうかにこだわるよりも、そういう話が違和感無く、またグラハム師の名誉を損なうことなく語り継がれるぐらいに、彼らリバプール出身の四人の若きミュージシャンたちがアメリカ社会に与えたインパクトは巨大であったと考えるべきだろう。

 

Sponsored Link Advertising

   

3週連続でのサリヴァン・ショー出演

 

2月9日に演奏した曲は、演奏順に「オール・マイ・ラヴィング」「ティル・ゼア・ウォズ・ユー」「シー・ラヴズ・ユー」「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」「抱きしめたい」で、「ティル・ゼア・ウォズ・ユー」以外は全部オリジナルである。

 

初回の出演時の反響が大き過ぎて翌週の16日も翌々週の23日も、連続で出演するという、普通では考えられない事態となった。
ちなみに1週目と3週目は録画放送で、2週目は生放送である。

 

アメリカで1963年終盤に、ローカルラジオから草の根レベルで火がついたビートルズ人気だったが、1964年の春から夏にかけては、もはや消防車が何台駆けつけようが消すに消せない大火事となってアメリカ全体を焼き尽くした。

 

Sponsored Link Advertising  

  

上位5枠をビートルズが独り占め

 

1964年4月4日付けのビルボード誌ホット100において、ついにアメリカ国民は1位から5位までをビートルズ・ナンバーが独占すると言う、まさに空前絶後の大快挙を目の当たりにした。

 

その5曲の顔ぶれとは・・・

 

1.Can't Buy Me Love 
2.Twist And Shout 
3.She Loves You 
4.I Want To Hold Your Hand 
5.Please Please Me 

 

面白いのは1位の「Can't Buy Me Love」と4位の「I Want To Hold Your Hand」の2曲はキャピタル・レコードからのリリースであるが、2位「Twist And Shout」はTOLLIE、3位「She Loves You」はSWAN、5位「Please Please Me」はVJからであった。

 

このように複数のレーベルからレコードがリリースされる複雑な権利関係は、ビートルズがブレイクしていた本国イギリスとブレイク前のアメリカの業界の温度差ゆえの、EMIのなりふり構わないアメリカ攻勢が生んだ結果だ。

 

しかし各レコード会社が好き勝手なフォーマット、つまり本国では無かったシングル盤やカップリング内容、あるいは好きに組み合わせたオムニバス盤などで乱立していたからこそ、人気に火が点いた時の火勢の凄まじさを倍増させた。

 

そういう事情も手伝っての、トップ5枠の独占という快挙になったとも言えるだろう。

 

ある意味ごちゃごちゃの権利関係による「怪我の功名」であり、ここでも「持って」いる力が後押しをしていたのだろう。

 

いずれにせよ、彼らの音楽の革新性と溢れんばかりの音楽への情熱が、世界を動かしてゆき、やがて音楽に止まらずカルチャー全体に途方も無い影響を与え始めることになる。

 

 筆者のビートルズKindle本

 読み放題対応!登録後1ヶ月は無料

(1ヶ月手前で辞めるのもOK)

  

ジョン・レノンの魅力全開なフォークロック曲ビートルズ「恋する二人」の逸話

ビートルズ画像

I Should Have Known Better

1964年2月25日、2月26日収録  

  

 Contents


www.eigonodogutman.com

Sponsored Link Advertising

 

 

ジョン・レノンによるフォークロック 

 

「I SHould Have Known Better(恋する二人)」はアルバム『ハード・デイズ・ナイト』のA面2曲目、ジョンによる秀逸なアルバム表題曲の後に立て続けにジョンの素晴らしいフォークロック・チューンが始まる。

 

彼の少しハスキーでありながら潤いと艶がある声、そして時折り聞かせるファルセットは最高にイカしている。

 

アルバムではさらに続く「If I Fell」「I'm Happy To Dance With You」まで、ジョンの作品が冒頭から4曲続くのである。さすがに4曲目はボーカルはジョージがとっているが、それにしてもジョンのこのアルバムでの仕事は華々しい。

 

そもそもこのアルバムは、初めてカバー曲なしで13曲全てがレノン/マッカートニーのオリジナル曲である。

 

そして実質的にはそのうち10曲は、ジョンが書いたものだ。ジョンのコンポーザーとしての才能が見事に開花した、初期の最高アルバムと言ってよいだろう。

 

このアルバムに関してもうひとつ付け加えると、晩期のアルバム『Let It Be』を除けば唯一のリンゴ・スターのボーカル曲が収録されていないアルバムでもある。理由は定かではない。

 

www.eigonodogutman.com

Sponsored Link Advertising

   

映画の劇中演奏シーン、口パクなのにキーが半音低い?

 

 

この「恋する二人」は映画『ア・ハード・デイズ・ナイト』の中で二回流される。1回目は彼らが列車で移動中の貨物車両の檻の中でトランプに興じているバックで流される。

 

そしてラスト間近のコンサートのシーンでは、劇中の演奏として登場する。音源自体はレコードのものを使った「リップ・シンク」つまり口パクだ。

 

ここでひとつ、一部のマニアの間で謎として語られていたことがある。この2回流れる同曲のキーが、場面によって違うのである。

 

1回目はレコード音源と同じGキーだ。ところがラストのコンサート時でのキーはG♭であり半音低く、テンポも少しだけ遅い。テンポに関してはアナログ音源の宿命である。

 

デジタルであれば速度は変えずに音程を変えることはできるが、アナログの場合は再生速度を落とすと音程が下がる関係性は仕方がない部分だ。

 

理屈はそういうことだがその理由がわからない。ビートルズ自体は日本公演がそうであったように、声の調子などの理由でキーを半音下げて演奏するケースが時折りある。

 

でも、口パクなので、わざわざスピードを犠牲にしてまでキーを下げる理由が見つからないのだ。

 

この謎の正体について、実は同映画を監督したリチャード・レスター自身によって、後に明かされていた。

 

www.eigonodogutman.com

Sponsored Link Advertising

      

謎を生んだ原因はPAL方式

 

洋書でしか入手できない書籍だが、J. Phillip Di Francoによる『The Beatles in Richard Lester's A Hard Day's Night - A Complete Pictorial Record of the Movie Hardcover』の中のレスター監督へのインタビューで以下のような事実が明らかにされている。

本画像

www.eigonodogutman.com

Sponsored Link Advertising  

     

映画ラストのコンサート・シーンを観れば、彼らの演奏をテレビカメラで撮影しているモニター映像が、モニタールームのテレビ画面に映し出されるシーンが度々登場する。

 

実はこのシーンのために半音下げざるを得なかったのだ。

 

リチャード・レスターによれば、このモニタールームのシーンを普通に撮影したところ、テレビ画面の中で黒い帯状の画像ノイズが上下する「フリッカー現象」が起こったのだ。

 

この原因はフォルムスピードの差にある。

 

映画撮影時のフィルムスピードは世界共通規格の24fps(フレーム/秒)である。そして英国のテレビはPAL方式と呼ばれる25fpsなのだ。

 

つまり、毎秒25フレームで撮影されたテレビモニター画像を毎秒24フレームで撮影したものだからフリッカー現象が起こったということなのだ。

 

画像ノイズを生み出さないためには同等以上のフィルムスピードでテレビモニターを撮影するしかないので、このシーンはフィルムスピードを25fpsに変更して撮影された。

 

その映像が再生されるのは24fpsなので、結果的にスピードが遅くなった分音程も下がり、それが半音の開きを生んだというカラクリが、リチャード・レスター監督によって明かされたのである。

 

まぁ、マニア以外の人にとっては、どうでもよいことだろうが・・・(笑)

 

※ アルバム『ハード・デイズ・ナイト』フルプレイリスト  

※ 筆者のビートルズKindle本

 読み放題対応!登録後1ヶ月は無料

(1ヶ月手前で辞めるのもOK)

  

史上初の予約だけで百万枚!ビートルズ曲中ジャズマンに溺愛された斬新ブルースとは?

ビートルズ画像

Can't Buy Me Love

1964年1月29日、2月25日、3月10日収録 

  

 Contents

www.eigonodogutman.com

Sponsored Link Advertising

 

 

予約のみで英国100万枚、米国210万枚の快挙 

 

1964年3月20日にリリースされたビートルズのオリジナル・シングル盤が「キャント・バイ・ミー・ラブ」(B面は「ユー・キャント・ドゥー・ザット」)は予約だけで英国では100万枚、アメリカで210万枚という偉業を達成した。

 

このことは『ギネス世界記録』にも記載されている。

 

アルバムとしては同年7月リリースの『ハード・デイズ・ナイト』のB面7曲目に収められた。そして多くのアーティストがカバーした点でも代表的なビートルズ・ナンバーとして知られている名曲だ。

 

www.eigonodogutman.com

Sponsored Link Advertising

   

ブルースがベースの楽曲ながら、一瞬煌めくサビ

 

この「キャント・バイ・ミー・ラブ(Can't Buy Me Love)」という曲は、若き天才ポール・マッカートニーによるブルース・ポップの完成形とも言えるバランスがよいクールな曲である。

  

初期ビートルズの必殺パターンであるブルースとポップの絶妙なブレンドが効いている曲の中でも、まさにピカイチの完成度だ。

 

ブルーノートの絶妙な使用だけでなく、全体を通して使われるシンコペーションのセンスがすこぶる良い。そういう文脈の中での、ほんの一瞬の景色が変わるサビは非常に斬新でカッコいい。

 

だからこそ、レコードとして史上初の「予約だけでミリオンセラー」を記録したのである。

 

www.eigonodogutman.com

Sponsored Link Advertising

      

 エンパイア・プールでのライブバージョンも圧巻! 

 

この曲ならびにアルバム『ハード・デイズ・ナイト』が発表された1964年英国はロンドンの「エンパイア・プール(現・ウェンブリー・アリーナ)」での映像も素晴らしいライブ演奏が聞ける。

 

ポールのシャウトが随所に入るワイルドなボーカルは言うまでもなく、手にして間もないリッケンバッカー12弦ギターを弾きこなすジョージ・ハリスンも渋い。

 

www.eigonodogutman.com

Sponsored Link Advertising  

    

ジャズマンが大好きでカバーしまくる曲

 

 

ビートルズ・ナンバー自体がジャズを含む多くのアーティストのカバー対象となっているのは言うもでもない。

 

なにせ当時のブルース系の楽曲(ロックンロールもR&Bも含む)の中で、このような斬新なサビが効いている。

 

しかしその中で、楽曲自体の構成にうるさいジャズプレイヤーたちが純粋に曲の良さによってこぞってカバーした曲でもある。そういう観点からは最もカバーされているという印象がある。

 

要するにジャズ・プレイヤーにとってアドリブ=インプロヴィゼイションをする楽しさに溢れる構成と、アドリブの根本のモチーフとなるテーマのメロディが、音楽的にクールな曲なのである。

 

また、ジャズ・ボーカルのジャンルではエラ・フィッツジェラルドの熱演があまりにも有名であり、ポール自身も絶賛を送っていた。

 

www.eigonodogutman.com

Sponsored Link Advertising

 

 

この曲のパリでのベーシックトラック録音は「おまけ」だった

「キャント・バイ・ミー・ラブ」の録音は3回に亘っておこなわれているが、その1回目であり大部分を決定するベーシックトラックの録音は1964年の1月29日、EMIのパリ・スタジオで録音された。しかしその作業はいわば「おまけ」だった。

 

なぜなら、その日の録音作業は、1963年にリリースされてイギリスで大ヒットを飛ばした「シー・ラブズ・ユー」と「抱きしめたい」のドイツ語バージョンの収録であったのだ。

 

現在ではそのようなことは考えにくいが、当時の事情として外国のタレントを自国語で売り出すことは世界共通のデフォルトであったのだ。

 

アメリカなどの英語圏は問題ないが、当然ドイツのレコード業界からは、「自国語でないと売れないのでドイツ語バージョンを」との強いリクエストがあった。

 

それに応えるためにジョージ・マーティン率いるレコーディング・スタッフが、ビートルズを追いかけるようにパリまでやってきたのだ。当然ビートルズは気乗りがしなかったが、断るわけにもいかずに録音をした。

 

「抱きしめたい」は、既発盤で使ったベーシック・トラックを持ち込んで、ドイツ語のボーカルをミックスした。

 

ところが「シー・ラブズ・ユー」はベーシック・トラックがすでに処分されていたのだ。止むを得ず楽器演奏とドイツ語ボーカルを生録音して制作された。

 

このおかげでドイツ語版ではあるが「シー・ラブズ・ユー」のステレオ・バージョンが初めて生まれたのだ。

 

というのも、「シー・ラブズ・ユー」のオリジナル英語版に関しては、モノラルのシングル用マスター・テープしか残されていない。よってステレオでのリマスターは現在でも不可能であり、ステレオ・バージョンは世界中どこにも存在しないのだ。

 

※「She Loves You」ドイツ語バージョン

 

※「I Want To Hold Your Hand」のドイツ語バージョン

 

パリでドイツ語だけでなく英語バージョンも録音されていれば・・・と残念に思うファンの数は計り知れないが、後の祭りである。

 

その日、レコーディングはかなり順調に進んで時間が余った。そこで、次回シングル用の「キャント・バイ・ミー・ラブ」も録音もしておこうということになり、取り掛かるや、わずか4テイクでベースとなる音源のほとんどが録音できた。

 

それが後にギネスに載るヒットとなるのだから、やはり彼らは持っているのだ。

 

そしてこのレコーディングの3日後、ビートルズとマネージャーのブライアン・エプスタインは、「抱きしめたい」が全米ヒット・チャートでトップに輝いたことを伝える「ビルボード」誌を手にすることになる。

 

※ アルバム『ハード・デイズ・ナイト』フルプレイリスト  

※ 筆者のビートルズKindle本

 読み放題対応!登録後1ヶ月は無料

(1ヶ月手前で辞めるのもOK)

  

初期ビートルズがギターバンドの面目躍如!ソリッドでゴキゲンなロックチューンとは?

ビートルズ画像

 You Can't Do That

1964年2月25日、5月22日収録 

  

 Contents

Sponsored Link Advertising

   

 

ブルージーかつポップでシャウトが最高な初期ビートルズの堂々たるロック

 

アルバム『ハード・デイズ・ナイト』のB面5曲目「ユー・キャント・ドゥー・ザット(You Can't Do That)」は、ジョン・レノンによるストレートなロックチューンである。しかしそこはビートルズ、彼ららしい曲の構成とサウンドになっている。

 

イントロのジョージ・ハリスンがリッケンバッカー12弦ギターで奏でる、一風変わったリフもとてもクールだ。後のブリティッシュ・ハードのレッド・ツェッペリンやディープ・パープルに影響を与えていそうな名リフだと思う。

 

歌に入ると典型的なブルース進行でメロディもブルーノートを使ったブルージーな12小節2回繰り返してから突入する8小節のサビは、一転してダイアトニックスケール(一般的なドレミ音階)で景色を変えてポップなコーラスワークだ。

 

ブルースとポップの絶妙なブレンドこそ、初期ビートルズの必殺パターンのひとつである。他には「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」「「キャント・バイ・ミー・ラブ」などがある。

 

ライブでのこの曲も最高だ。

  

www.eigonodogutman.com

Sponsored Link Advertising

 

 

間奏のギターソロはジョン・レノン 

 

この曲の間奏のギターソロはジョンが弾いている。たまにはリードギターを弾きたいということで、そうなったらしい。

 

このソロがもう仕上がり過ぎてたまらない。後期の「ゲット・バック」で聞かれるジョンの印象的な「複音チョーキング」は、この時すでに技として使われていた。

 

同様に「ゲット・バック」で見せている高音のセブンスコードを「ジャカジャカジャッ」と、素早くも叩きつけるように弾く技なども披露している。

 

ジョージのリフと言い、ジョンのソロと言い、こういう演奏を聴くとやはりビートルズはギターバンドだと唸ってしまう。譜面では表せない、バンドとしての「ノリ」や「グルーブ」がびんびん伝わってくるサウンドだ。

 

www.eigonodogutman.com

Sponsored Link Advertising

      

リッケンバッカーが一躍有名になったのは? 

 

ジョン・レノンはビートルズのデビュー当時から、リッケンバッカー325をメインギターとして愛用していた。一方、ジョージ・ハリスンのメインギターはグレッチ・カントリー・ジェントルマンという名のセミアコースティックギターだ。

 

ビートルズ画像

 

しかしジョージは1963年、休暇がとれた時に、アメリカで暮らす姉のもとに遊びに行った折にリッケンバッカー425を手に入れた。これを気に入って、帰国後のテレビ収録などで使用したのだ。

 

また、ジョンはリッケンバッカー社に325の特注モデルを1963年にオーダーしていた。

 

そういう縁があって、彼らがアメリカ遠征で初上陸してすぐ、リッケンバッカー社からビートルズにプレゼントが贈られた。

 

ジョン・レノンには特注のリッケンバッカー325、ジョージ・ハリスンには12弦ギター・リッケンバッカー360/12、ポール・マッカートニーにはエレクトリックベース・リッケンバッカー4001Sがそれぞれ贈られた。

 

ビートルズ画像

 

ヘフナーのバイオリンベースがお気に入りのポールには、ネックが太いリッケンバッカーのベースは弾きにくいのか、もらってからしばらくは使用しなかった。

 

しかし中期以降、そのソリッドなサウンドの良さからであろうか、リッケンバッカーのベースを多用するようになる。最後はヘフナーに戻るが・・・・。

 

ビートルズ画像

 

ともあれ、このプレゼントに応えるべく、翌日のエド・サリバン・ショーに登場したジョンは手にしたばかりの特別仕様のリッケンバッカー325で演奏した。

 

 

この番組の視聴率は72%で、アメリカ国民の6割が観たと言われるほどの社会的現象となった。結果的にジョンが弾いていたリッケンバッカーの名も売れて、一躍有名となったのである。

 

そしてアメリカ遠征から戻ってすぐのレコーディングにて、ジョージが初めてリッケンバッカーの12弦ギターを使用したのが「ユー・キャント・ドゥー・ザット」である。

 

この12弦のほろ苦くも煌めくギターサウンドは、ほどなくビートルズサウンドのひとつのアイコンとなる。

 

www.eigonodogutman.com

Sponsored Link Advertising  

    

ストレートなロックが聞ける最後のアルバムか?

 

この曲自体はゴキゲンな雰囲気だが、この時期は初期とはいえどもほんの少しずつ中期のサイケデリックなビートルズに近づきつつあったのは間違いない。

 

だからこのようなストレートなロックチューンは、この先はあまり聴かれなくなる。つまり、たとえ演奏はロックっぽくても音楽的な実験や試行錯誤が入ったり、詞の内容が内省的なものや哲学的な曲想が増えてゆくことになる。

 

そして『ハード・デイズ・ナイト』の次のアルバム『ビートルズ・フォー・セール』では、キャッチーなアルバムタイトルとは裏腹に、歌詞の内容において「翳り」のある曲が増えてゆく。

 

  

それはアルバム・ジャケットの憂いを帯びた4人の表情にも表れている。この後の『ヘルプ!』に至ってはサウンドはポップだが、表題曲の「ヘルプ!」を筆頭に、赤裸々に心象風景を描くような歌詞がどんどん極められてゆく。

 

そして『ラバー・ソウル』からは中期のサイケデリック・ビートルズの開花が始まることになる。

 

初期ビートルズのピークとも言える『ハード・デイズ・ナイト』のエピソードは、あとひとつかふたつ、書こうと思っている。

 

その後は、ビートルズの変貌がじわじわと表面化しゆく『ビートルズ・フォー・セール』およびそれ以降のアルバムを、順次掘り下げていくつもりだ。

 

このブログでは、彼らのオリジナル・アルバム全12枚はコラムとしてコンプリートし、その後はアルバムに入っていない名曲をひとつ一つ掘り下げる予定である。 

 

※ アルバム『ハード・デイズ・ナイト』フルプレイリスト  

※ 筆者のビートルズKindle本

 読み放題対応!登録後1ヶ月は無料

(1ヶ月手前で辞めるのもOK)

  

ビートルズ「If I Fell」の不思議コード進行が心突き動かすカラクリに迫る!

ビートルズ画像

If I Fell

1964年2月27日収録 

 

 Contents

Sponsored Link Advertising

   

 

美麗な初期の名曲

 

アルバム『ハード・デイズ・ナイト』の中の、ジョン・レノンによって書かれた名曲「If I Fell(恋に落ちたら)」は初期の彼らの、美しくてリリカルで初々しいサウンドの代表的なものだ。

 

彼らの初主演映画である『ハード・デイズ・ナイト』のために書かれた、この美麗な曲を好きな人は大変多い。

 

冒頭の「不安」なメロディラインがやがて「希望」を感じさせるような明るい兆しを帯びる。この流れは歌詞の内容とも呼応しており、やがて力強く美しいコーラスになだれ込む。

 

ジョージ・ハリスンの弾く12弦ギター、リッケンバッカー360/12の音色も曲想にどんぴしゃりである。

 

美しく印象的なメロディとコードの流れ、ジョンの情緒たっぷりの歌声を際立たせるポールのセンスの良いハーモニーに心をむぎゅ〜っと鷲掴みにされてしまう、筆者も大好きな素敵な曲である。

 

www.eigonodogutman.com

Sponsored Link Advertising

 

 

不思議なコード進行

 

ところで、この曲の冒頭のコード進行は特に不思議な流れであり、メロディはメランコリックな感じだ。

 

実は筆者が中学一年の頃だが、現在も続く長寿音楽TV番組『題名のない音楽会』にて、当時司会の黛敏郎氏(生前は日本を代表するクラシック&現代音楽家であった)がこの曲を取り上げて、特にその部分を褒めちぎっていた。

 

余談だがその番組の冒頭で、日本でのビートルズ完コピバンドの先駆け「バッドボーイズ」が「抱きしめたい」をライブ演奏した。彼らはルックスも一見そっくりだった。ちなみにベーシストは後に「オフコース」のメンバーになる清水仁だ。

 

筆者はその頃、学校の校内放送で「Let It Be」や「Hey Jude」は聞いたことがあった。しかし「カーペンターズ」にリアルタイムでハマっており、カレンの歌声に絡め取られていたので、ビートルズに関しては良いとは思ったがぞっこんではなかった。

 

しかしこの、初期ビートルズよろしくダークスーツに身を包んで颯爽と登場した「バッドボーイズ」が演奏する完コピの「抱きしめたい」は衝撃的だった!

 

もう、カッコ良過ぎて、ぞぞぞ〜〜っと鳥肌が立ってしまった。

トリビュートバンドでこれなら、本物のビートルズは、どれほど凄まじくカッコよかったのだろうか・・・などと今は思う。

  


Sponsored Link Advertising

      

題名のない音楽会

 

もちろん完コピ元の原曲が素晴らしいから、忠実に再現されたそれが心に突き刺さったのだ。その日が、未だ続くビートルズギーク人生の幕開けであった。

 

ちなみにヲタクを意味する英語はGEEKとNERDの2種類あるが、GEEK(ギーク)はポジティブで社会と向き合うヲタクであり、NERD(ナード)はネガティブかつ社会に背を向けるヲタクを指す。

 

話は戻るが、その番組で黛敏郎は「If I Fell」の冒頭部分をクラシックの面から解析した。

 

下記の部分である。

If I Fell  詞・曲 Lennon-McCartney

 

If I fell in love with you

Would you promise to be true

And help me understand

‘Cause I’ve been in love before

And I found that love was more

Than just holding hands

 

しかしその説明たるや、物凄く難しい専門用語を用いて、どれだけ複雑で高度であるかをとくとくと話されていたものの、何が言いたいかさっぱり分からなかった。

 

黒板に引かれた五線譜上で踊る、多くの臨時記号を伴った音符を指差し、やれ「増何度」だの「減何度」だのと超複雑そうであった。

 

聴く分には、冒頭のコードとメロディの流れは不思議な感じはするが、また自然でもあり美しくもあり、そのような複雑怪奇な説明とはかけ離れている気がしたものだ。

 

別のビートルズ曲「Not A Second Time」に関して、同じようなエピソードがある。

 

英国の「タイムズ」紙でクラシック評論家ウィリアム・マンがこの曲を「マーラーの『大地の歌』におけるエオニアン・ケーデンスと同じ和声進行が使われている!」と評してジョンとポールは何のこっちゃ分からなかったという話と似ている。

 

Sponsored Link Advertising  

   

ジャズからの解釈

 

ともあれ、「If I Fell」のこの部分は多くの人たちが同様に、不思議なコード進行だと感じていることだろう。

 

言及する人も多いが、大抵はこれをきちんと音楽的に解釈せずに「無茶な」「強引な」とか「適当な」という表現で片付けられている。

 

井上陽水や浜田省吾・山口百恵・松田聖子・岩崎宏美など50人を超える歌手をプロデュースしたことで知られる、ビートルズ愛が深過ぎる音楽プロデューサーとしても有名な川瀬泰雄氏さえもだ。

 

川瀬氏は「つくづく奇妙なコード進行だ」で済ましていて、きちんとした説明はないのだ。

 

ジョンがどういうつもりで冒頭のコード進行を作ったのかは、今となっては真実を確かめる術はないが、ずっと心に残っていた。

 

ギターを中学の頃から始めたが、大人になって音楽の志向がジャズに向き、ジャズギタリストに師事してジャズを学んでから、ようやくあの不思議進行が自分なりに解釈できた。

少なくとも個人的には解決した。ここではそれを紹介しようと思う。

 

後期の彼らならともかくとしても、ビートルズ初期のジョンやポールは理論でやったのではないと思われる。普段からセオリーなど無視して色んなコード進行を試して、響きのカッコよさで使う使わないを決めていたのだろう。

 

だから曲によっては唐突な印象を受けるものも多い中、この曲に関しては自然であるにも関わらず、実は高度な転調になっているのである。 

 

 

コード機能の分析

 

コード進行は以下の通りだ。

 

E♭m / D / D♭ / B♭m 

E♭m / D / Em / A7

この後はポールのコーラスが加わり美しいハーモニーのコーラスパート「If I give my heart to you」 になだれ込む。

 

歌詞と呼応させて記載すると以下のようになる。ブルーとピンクで対応するコードと同じ色分けをしてある。スラッシュは小節の区切りだ。

 

If I / fell in love with you

     E♭m 

 

Would you / promise to be true

                     D

 

And / help me / understand

          D♭             B♭m 

 

‘Cause I’ve / been in love before

                      E♭m

 

And I found that love was more

            D  

 

Than / just holding ha/nds

            Em                     A7

 

 

この曲自体のキーはDであるが、 最初の4小節はキーがD♭であり、コード機能の解釈は以下のようになる。

 

Key=D♭

E♭m:IIm(サブドミナント)

D :II♭ (ドミナント代理)

D♭:I (トニック)

B♭m:Ⅵ (トニック) 

 

ドミナント代理とは「裏コード」とも呼ばれる手法で、本来この場合ならトニックであるD♭に対するドミナントコード(最も強い終止感を伴って解決させるコード)であるA♭7の役割を代理できるコードだ。

本来はDのコードにセブンス(短7度)を付加したD7が正攻法であるが、セブンスは省略してもコードの機能は果たせる。ジョンはセブンスを(意識しているかはともかく)付加していない。

 

詳しくは後述するが、ここでセブンスがつかないDコードを当てていることが非常に重要な効果を後に及ぼすことになる。

 

 

調性の曖昧さが生む自然な転調

 

さて、ここまでは、代理コード(裏コード)Dの時点のメロディが、代理Dの構成音と呼応して半音変化する以外はノーマルである。

 

次の4小節のコード機能の解釈では、途中でキーが変わることに注目しよう。

 

E♭m:IIm(キーD♭のサブドミナント)

D :II♭ (キーD♭のドミナントであるA♭7の代理であると同時にキーDのトニック= I の機能が次の瞬間に生まれる)

これ以降 Key=D

Em:IIm(サブドミナント)

A7:Ⅴ7 (ドミナント) 

 

2小節目のDは転調前のキーD♭におけるドミナント代理として使われる。

5〜6小節目でまた同じE♭m/Dの進行でメロディも同じものがくるので、「その瞬間」に関しては、6小節目は2小節目と同じように響く。

 

ところが次に来るコードはすでにキーが半音上がったDのサブドミナントに当たるEmなのだ。

 

ここで強調したいことは「コードの機能はその瞬間瞬間に決まるものではなく、音楽上のコンテクスト、文脈の中で後から意味を持ち、役目を帯びて来る」ということだ。

 

つまり、この場合はEmが鳴った瞬間、「遡って」直前のDにキーDのトニック機能が生まれ、転調が確定するのである。

 

半音上昇する転調は一般的によく使われる。ビートルズも、同時期では「And I Love Her」などで使っている。

 

半音上昇転調には以下の二つの共通する特徴がある。

  • 楽曲が盛り上がってから使われる
  • 「唐突」に半音上がるので転調が歴然と分かる

 

ビートルズの「And I Love Her」もこれが当てはまる。

ところが「If I Fell」は冒頭でそれがおこなわれ、しかも半音上がったという印象を与えないのがミソだ。

 

そもそもキーが変わったことすら意識させず、冒頭のメランコリックな雰囲気から明るく情緒的で力強い流れに自然に移行して、あとはただただ美しいハーモニーとメロディにうっとりさせられるのみである。

 

これがもし、冒頭のDが本来のA♭7の代理コードであるD7であればこうはいかない。

ギターかピアノでやってみれば分かるが、D7という響きが濁ったセブンスコードではEmが鳴った時に、遡ってトニック機能を感じさせるのは困難で、いわゆる「唐突」な転調感が生まれる。

 

セブンスを鳴らさないからこそ、気づかないうちに変化する自然な転調であり、これほど見事で美しい流れの半音上昇転調は他では類を見ない。

 

セブンスの省略によってトーナリティ(調性)、つまりキーのアイデンティティを曖昧にさせ、ドミナントとトニックの両方の機能を持たせたのだ。

 

黛敏郎氏の説明の内容は覚えていないが、クラシックはコード進行の概念がないので、半音違うキーが隣り合わせた場面の解釈が、あのように複雑怪奇になったのであろうと今は想像できる。それはあくまで「音の成分」の解釈だ。

 

筆者がおこなったジャズ理論ベースの「流れとしての音」の解釈の方が、をまだわかりやすいのではないかと思うが、筆者はクラシックは門外漢なのでクラシック畑の人の意見も伺いたいものだ。

 

もちろん、作られた現場はもっとシンプルだったと思う。

ジョンはきっと「ここからキーを半音上げたらカッコいいに違いない・・・じゃこのコードでつなげばいいんじゃね?」くらいの感覚でやったと想像している。

 

高度な転調を理論からではなく、フィーリングでやってのけたのであろうジョン・レノンの音楽センスは、初期からすでミュージックモンスターの領域に入っていたのであろう。

※ アルバム『ハード・デイズ・ナイト』フルプレイリスト  

※ 筆者のビートルズKindle本

 

読み放題対応!登録後1ヶ月は無料

(1ヶ月手前で辞めるのもOK)

  

ネイティブメソッドのヒント満載『英語喉コラム集』発刊!冒頭部分を公開

本年もどうぞよろくお願い申し上げます!

 

筆者MASAの英語喉に関する考察やヒントを書き綴った『英語喉コラム集』が、英語喉の総帥・上川一秋氏の監修のもとに発刊された。

 

英語喉に興味がある人、これから試そうとする人、試しているが上手く体得できていない人、体得したが伸び悩んでいる人等々にぜひ読んで頂きたい内容となっている。

 

ここでは冒頭の筆者の前書きと、監修者上川氏の一文を公開することにする。

Sponsored Link Advertising

   

本画像

https://amzn.to/2rX5fZg

Contents

Sponsored Link Advertising

 

 

〜 はじめに 〜

 

プロライター・小説家・英語喉実践者

MASA

 

日本人は一般的に英語が苦手とされる。

 

それもそのはずで、発音方法が雲泥の差があるのだ。ネイティブの実際の発音方式は、喉で響かせる「喉発音」であるのだが、これは学校では教えてくれない。


なぜなら英語ネイティブにとってはデフォルトなので、よもや日本人が口で響かせる「口発音」という、根本がまったく違う発音方式を取っているとは思わないから、そんなことを日本人に教える外国人は歴史上いない。


いや、いなかった・・・と過去形にしておこう。グラフィック・デザイナーのジーナ・ジョージ氏が歴史上初めてそれを指摘した。

 

きっかけはジーナ氏の夫であり統計アナリストの上川一秋氏が、アメリカで10年暮らしながらも、周囲からは「透明人間」のような扱いを受けていたことだ。

 

言葉の壁の本質を上川夫妻は突き詰めて、英語の発話をネイティブにとっての自然な英語たらしめる二大要素を発見した。


メインが「喉発音」でサブが「シラブルの3ビート」だが、このふたつも奥底ではつながっていて、どちらからのアプローチでも結論は同じところに行き着く。

 

この画期的な方法論を上川夫妻は書籍として世に送り出した。

 

Sponsored Link Advertising

      


それが『英語喉 50のメソッド』であり、これによって日本人は、一瞬にして言葉の壁を崩し、文化の垣根を飛び越え、ネイティブとまともに向き合い対等にコミュニケーションがとれる唯一無二のメソッドである。


実際、このメソッドでは英語(少なくともアメリカ英語)で発生する全音声現象に関して、根本的かつ普遍的な論旨で解き明かされている。


英語喉の副読本である『機関銃英語が聴き取れる!』は「シラブルの3ビート」に特化してビギナーにわかりやすく書かれており、中には一読するだけで聴き取りの向上を体験した人もいる。

 

 

筆者MASAは2011年2月19日にこのメソッドに出会って人生が変わった。


そしてひとりでも多くの英語学習者に英語喉を伝えたい想いで、上川夫妻を主人公に英語喉の誕生と黎明期を小説で描いたものが小説『喉の旅』(上・中・下3巻)である。

 

 

 

小説という読みやすい形で、英語喉というものを成り立ちから理論的な背景、実際の体験談などを盛り込んで描いている。


そして本書『英語喉コラム集』は筆者がブログにて発信してきたものを基に、加筆修正してまとめ上げたものである。

 

この書籍が英語喉実践者の人にとって、メソッドを様々な角度で認識する役に立てることを願い、実践者ではない人には英語喉を始めるきっかけになることを願っている。

Sponsored Link Advertising  

  

〜 監修者より 〜


『英語喉 50のメソッド』著者・統計アナリスト・社会学博士

上川一秋

 

英語喉が出版されて約12年が過ぎました。

 

特に最初の数年は誤解を受け、大きな批判を受けることもありましたが、そんな中で著者としての励みとなったのは、多くの実践者の存在でした。

 

特に本書の著者であり、新進気鋭の小説家でもあるMASA氏は、早い時期から英語喉を取り入れ、英語力を伸ばし、英語を使って海外へと発信してきた人物です。


そんなMASA氏が私の2011年の帰国の際に、広島の実家まで会いに来て下さったことも懐かしい思い出です。

 

『英語喉 50のメソッド』の著者として光栄に感じるのは、MASA氏の「英語喉」理解の、驚くほどの正確さと深さのレベルです。


まさか、あの広島で出会った時、楽しく会食をし、意見交換をできたMASA氏が、ここまで英語喉を理解してくれているとは、メソッドの著者にとって、これほど嬉しいことはありません。

 

さらに、英語を使って心の交流を外国人としている様子をMASA RADIOというメディアを使ってネット発信している姿・・・に感動しました。


まさに私が、英語喉を通じて多くの日本人に経験してもらいたかったことです。

英語を使って、世界の人々と話をし、共感しあい、そして信頼のもとに友情を育む。これこそ私が英語喉に期待したことなのです。

 

英語喉で聴き取りを鍛えると、相手の心まで聴き取れるような気になります。そして発音も、心の動き、暖かさ、気持ちを外国人に伝えることができます。


本書『英語喉コラム集』には、英語喉を経験し、コミュニケーション力を向上させた立場からのヒントがたくさん詰まっています。


今後のMASA氏の著作活動の成功を祈り、監修者の言葉に代えさせて頂きます。

 

  

筆者の英語関係Kindle本

 

 筆者のビートルズKindle本

 読み放題対応!登録後1ヶ月は無料

(1ヶ月手前で辞めるのもOK)

 

暮れゆく令和元年 年の瀬に寄せて

本画像
 

令和が始まったのは本年の5月1日。

 

その5月の末にこのブログを立ち上げてからの7ヶ月は、大変目まぐるしい月日だった。

 

その時はまだ会社役員の仕事をしながら、昨年から始めたライターの副業の中で、依頼された記事だけではなく、自分自身の発信したいものを書ける「場」を作ろうと立ち上げたのがこのブログだ。

 

本業とライター業の傍ら、このブログで「英語喉」「音楽」「文学」「副業」などのテーマで色々と発信させてもらったものが、現在14冊のKindle書籍として地味に地味に読まれているのは、嬉しいことである。

 

また多くのブログ仲間に恵まれ、刺激を受けたり励まされたりしながらブログを続けてこられたことも、感謝すべきことだと思っている。

 

未完のまま6年が経過した英語喉の黎明期の物語、小説『喉の旅』を仕上げて出版する決意を6月にしてから、8月上巻、9月中巻、そして今月の25日にやっと完結編である下巻を上梓した。

 

おかげさまで上中下3巻とも日増しに多くの人に読んで頂いている。

 

 

自分にとっての今年最大の出来事は何よりも、昔からなりたかった「物書き」を生業にしたい気持ちに抗えずに、とうとう秋に会社を退職して「物書き」一本で生きていくスタンスに入ったことだ。

 

退職後は収入を確保するために、自身の電子書籍の編纂とクライアントから受注した記事の執筆の方に時間を割いているので、ブログの更新頻度が下がってしまっているのは否めない。

 

それでもブログは、今後も続けていく気持ちは変わらない。

 

本年5月末のブログ開設以来訪問して頂いた多くの読者の皆様に、この場を借りて心より御礼を申し上げつつ、本年最後の稿を閉じることにする。