初期ビートルズ最高傑作アルバムを掘り下げたキンドル本を発刊!プロローグを全文掲載

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アルバム『ハード・デイズ・ナイト』フルプレイリスト  

 

 Contents

 

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Read The Beatles /A Hard Day's Night  

 

革命的音楽集団「ビートルズ」にとって1964年は、一気に世界的アーティストとしてブレイクした最も多忙な一年だった。

 

なにより世界最大のマーケットであるアメリカ合衆国で火が点いて、二度の遠征をおこなった。そして主演映画『A Hard Day's Night』に初出演し、同名アルバムも初期の最高傑作として大成功を収めた。

 

この書籍はアルバム『A Hard Day's Night』の制作に絡んだ秘話・逸話を最新の情報とともに綴りあげたものだ。以下「プロローグ」を全文掲載しておこう。

 

  

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プロローグ

前代未聞の多忙さだった1964年

 

1964年はビートルズにとって、最も忙しい一年だった。

1月のパリ遠征、2月と8月の2回のアメリカ遠征の合間を縫って映画撮影やレコーディング、デンマークやオランダから、香港・豪州・ニュージーランドの英連邦各国におけるコンサートも敢行した。

 

また7月には主演映画『A Hard Day's Night』がイギリスから公開が始まり、その後日本では『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』とのタイトルで公開された。8月の2回目の渡米はアメリカ遠征とカナダを含めたいわゆる北米ツアーとなる。

 

秋には本国イギリス内での演奏活動、年末にクリスマス・ショーで一年の幕を閉じたのである。


そんな超多忙な一年のなかで、全米チャートを1位から5位まで同時に独占するという、彼らが打ち立てた素晴らしい記録について掘り下げてみよう。

 

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草の根からメジャーに

 

1963年も押し迫った12月26日、ローカルラジオで掛かる英国盤の異常な人気にブレイクの兆しを感じたアメリカのキャピタル・レコードが、翌年に予定していた発売日から繰り上げてビートルズのシングル盤「I Want To Hold Your Hand」をリリースした。

 

年が明けて1964年の1月18日に全米ヒットチャートのトップに躍り出るや、2月の2週間余りのアメリカ遠征の折には、コンサートの合間を縫ってアメリカで最も有名なバラエティTV番組「エド・サリヴァン・ショー」に出演した。

 

この前の年の本国イギリスにおける、英国王室も演芸会を主催するほどの由緒正しく権威のあるロンドン・パラディアム・シアターへの出演、並びにテレビ中継による反響も相当大きかった。

 

しかしながら、エド・サリヴァン・ショーに出ることの伝播力はさらにその十倍以上はあったと思われる。

 

実は、このエド、サリヴァン・ショー出演にはサイドストーリーがあった。

 

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ヒースロー空港での遭遇

 

エド・サリヴァンは前年の10月にイギリスのヒースロー空港で、スウェーデン遠征から帰国したビートルズとそれを迎える熱狂的なファンの姿を、偶然目の当たりにした。

 

デビュー直後のエルヴィス・プレスリーのスター性を見抜いて早々とテレビの「ブラウン管」に登場させ、大ブレイクのトリガーを弾いた海千山千のエド・サリヴァンのことだから、閃くものが当然あったのだろう。

 

いや、そもそもエドならずとも、全く予備知識なしであっても当時のファンの熱烈な歓迎を見るに及んだ者なら誰しも、その四人の若者たちに何かとてつもない大きな力を感じたのかも知れない。

 

ともあれ、ヒースロー空港の一件があっての、エド・サリヴァン・ショーへの招待となったのである。こういうことをひとつとっても、ビートルズは確かに「持って」いたのだとの感銘を禁じ得ない。

 

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視聴率70%超を記録したTV初出演

 

エド・サリバン・ショーに颯爽と登場したビートルズであるが、初登場の2月9日は凄まじく、70%を超える前代未聞の視聴率を獲得し、業界の伝説・・・今で言えば真の「神回」となった。

 

その桁外れのビートルズの影響力を示すエピソードのひとつに、当時のアメリカで一番著名なキリスト教福音伝道師ビリー・グラハムにまつわるものがある。

 

厳格なグラハム師は戒律もストイックに遵守する信徒の鑑たる存在ではあるが、ビートルズがエド・サリバン・ショーに出演する日ばかりは戒律を破り、テレビを喰い入るように観たと伝わっている。

 

これが事実かどうかにこだわるよりも、そういう話が違和感無く、またグラハム師の名誉を損なうことなく語り継がれるぐらいに、彼らリバプール出身の四人の若きミュージシャンたちがアメリカ社会に与えたインパクトは巨大であったと考えるべきだろう。

 

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3週連続でのサリヴァン・ショー出演

 

2月9日に演奏した曲は、演奏順に「オール・マイ・ラヴィング」「ティル・ゼア・ウォズ・ユー」「シー・ラヴズ・ユー」「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」「抱きしめたい」で、「ティル・ゼア・ウォズ・ユー」以外は全部オリジナルである。

 

初回の出演時の反響が大き過ぎて翌週の16日も翌々週の23日も、連続で出演するという、普通では考えられない事態となった。
ちなみに1週目と3週目は録画放送で、2週目は生放送である。

 

アメリカで1963年終盤に、ローカルラジオから草の根レベルで火がついたビートルズ人気だったが、1964年の春から夏にかけては、もはや消防車が何台駆けつけようが消すに消せない大火事となってアメリカ全体を焼き尽くした。

 

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上位5枠をビートルズが独り占め

 

1964年4月4日付けのビルボード誌ホット100において、ついにアメリカ国民は1位から5位までをビートルズ・ナンバーが独占すると言う、まさに空前絶後の大快挙を目の当たりにした。

 

その5曲の顔ぶれとは・・・

 

1.Can't Buy Me Love 
2.Twist And Shout 
3.She Loves You 
4.I Want To Hold Your Hand 
5.Please Please Me 

 

面白いのは1位の「Can't Buy Me Love」と4位の「I Want To Hold Your Hand」の2曲はキャピタル・レコードからのリリースであるが、2位「Twist And Shout」はTOLLIE、3位「She Loves You」はSWAN、5位「Please Please Me」はVJからであった。

 

このように複数のレーベルからレコードがリリースされる複雑な権利関係は、ビートルズがブレイクしていた本国イギリスとブレイク前のアメリカの業界の温度差ゆえの、EMIのなりふり構わないアメリカ攻勢が生んだ結果だ。

 

しかし各レコード会社が好き勝手なフォーマット、つまり本国では無かったシングル盤やカップリング内容、あるいは好きに組み合わせたオムニバス盤などで乱立していたからこそ、人気に火が点いた時の火勢の凄まじさを倍増させた。

 

そういう事情も手伝っての、トップ5枠の独占という快挙になったとも言えるだろう。

 

ある意味ごちゃごちゃの権利関係による「怪我の功名」であり、ここでも「持って」いる力が後押しをしていたのだろう。

 

いずれにせよ、彼らの音楽の革新性と溢れんばかりの音楽への情熱が、世界を動かしてゆき、やがて音楽に止まらずカルチャー全体に途方も無い影響を与え始めることになる。

 

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