英語喉黎明期を描く小説堂々の完結編『喉の旅 下』発刊!冒頭「音の仕様書」全文公開【エンタメ】

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英語喉小説の完結編『喉の旅 下』

 

英語喉の誕生から黎明期を描いた小説『喉の旅』が完結し、下巻が無事発刊となった。

 

『喉の旅 下』では、主人公上川一秋とその妻ジーナが『英語喉 50のメソッド』発刊のための総仕上げに打ち込む様子が、英語喉の発音表記方法との苦闘とともに描かれる。

 

そのメソッドに深い興味を抱いた日本人女性ジャーナリスト氷十河枝麻は、折りよくワシントンでおこなわれる心理学会の取材の流れでアーリントンの上川宅を訪問し、未知なる画期的なメソッドの出現に心を躍らせる。

 

原稿を託された出版社の前畑が心血を注いで、彼と部下の谷口によるワシントン訪問から丸二年掛けで出版に漕ぎ着ける。

 

発刊からほどなくして、幾人かの草創の英語喉実践者たちによる瞠目すべき体験が起こり始める。

 

アメリカに住み「透明人間」として苦しむ青年たちを救い、英語好きなのに発音コンプレックスを持つ青年に国際交流の仕事に就かせるという数々の英語喉のエピソードが生まれ、世間に発信されてゆく。

 

初期の実践者たちの体験に触れた新しい実践者たちは、インターネットで英語喉の新しいパラダイムを世間に発信してゆく。

 

次第に裾野が広がりゆく英語喉コミュニティを、上川一秋はさらにダイナミックに展開していくことを決意する。

 

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小説『喉の旅』とは?

小説『喉の旅』は事実にもとづいた物語である。

英語圏のネイティブスピーカーと同じ発音を可能にする、画期的な英語メソッド本『英語喉 50のメソッド』の著者上川一秋とジーナ・ジョージが主人公だ。

 

 

アメリカ社会の中であまりに周囲が自分を無視するので、自らを「透明人間」と名付け、コミュニケーションに深刻に悩んでいた上川は、自分の英語に原因があるとの仮説のもと、妻であるジーナとともに、ネイティブ発音の核である二大要素の存在を発見する。

 

その発見を自らの英語の発話に取り入れだすと、周囲の上川に対する接し方が一変し、ほどなくアメリカ社会に完全に溶け込めた経験により、発見の正しさを身をもって証明する。

 

そして彼らは日本人が、英語ネイティブと対等なコミュニケーションが取れることを願い、試行錯誤の闘いを通してメソッドを体系化し、学習書籍として世に送り出した。

 

本書はその闘いを、上川自身が書いた記録文書や著者MASAによる上川を含む複数の関係者たちへの綿密な取材を通して再構築し、描いたリアルなフィクションである。

 

上中下3巻構成で、読み進めながら「英語喉」つまり「ネイティブメソッド」のアウトラインも理解できる、史上初の英語学習小説でもある。

 

また、この小説はエンタテインメントとしても楽しめる内容を有するが、上川一秋が監修の労を担っており、英語喉メソッドを広める啓蒙書籍としての資格も備えた小説であることを銘記しておく。

 

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喉の旅 下

 

~英語喉メソッドによる人生革命

  

   目次

 

旅装

 音の仕様書
 独特なる執筆方法
 服を着た好奇心
 ジャーナリストの矜持
 脱稿の日
 旅立ち

 

黎明の群像

 国際交流の現場へ
 アメリカにて
 学習書乱立
 枝雀トライアスロン
 画龍点睛
 勝利宣言

 

羅列

 全国ネット
 胎動
 先人の足跡
 実践と発信
 英語喉ポッドキャスト
 喉の旅

 

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※『喉の旅 下』冒頭「旅装」の章

     第一節「音の仕様書」を全文掲載


 旅装  

   音の仕様書 


枯木立だった林道も禿げ山だった山並みも眩い新緑の絵具をこんもりと盛り上がるほど塗られ、ヴァージニアはまるで別天地に生まれ変わったような表情を見せている。


2005年初夏、上川とジーナは発音メソッド執筆のためのディスカッションに余念がなかった。彼らの方法論は内容的にはあらゆる意味で従来の教則本と一線を画すものになるので、色々と表現に苦労するであろうことが予想された。


彼等はとりわけメソッド全体を貫いて重要な役割を果たすべき発音表記をどうするか、という問題には頭を悩ませていた。従来の発音記号は、音を輪切りにした断面図のようなものであると彼らは考えた。彼らはそれを二点において、不完全だと喝破していた。


ひとつは喉という「発音の座」について言及されていないことだ。これは最も重要でありながら、ネイティブの英語話者自身に自覚がないので、他言語話者の中で口発音が存在することなど思いもよらなかったのだろう。無理からぬ面もある。


しかしながら、ふたつめは既存の発音記号の構造的に不完全な部分であると言わざるを得ない。

 

つまり、あくまでも「ある音のある瞬間」を表現したに過ぎないということだ。

 

実際には音というものには「ライフサイクル」がある。生じてから消えてゆくまでの、ほんの瞬間であっても「時間の経過」と「プロセス」がある。それどころか、生じる直前からすでに音は始まっていることにすらジーナは気付いていた。


そしてそのライフサイクルの中で、音色や響き具合が当然ながら微妙に変化する。その流れを無視してどこかの一箇所だけを表現したものが従来の記号である。

 

それゆえ、例えば、Lには明るい音と暗い響きのダークLが存在するなどという議論が、音のライフサイクルという視点の欠如を、後追いで補わねばならなくなっている。


Lは単語の最初にくる場合と最後に来る場合、そしてまた途中に来る場合は後に続くのが母音か子音かによって響きが微妙に変わる。

 

これはL音のライフサイクルとそれに絡む別の音との関係によって生じる変化であり、音のライフサイクルという概念抜きには理解できない。


しかしそれを理解すれば、同じ音なのに様々な発音が存在するという考えがいかに間違っているかが分かる。実際、LはどこまでいってもLである。L以外のなにものでもない。

 

響きが違うLも、あくまでL自身の変化相であって、その折々の音の前後関係で響きが変わるだけであり、Lの本質は些かも変わらないのである。そして、これは全ての音に当てはまる原理だ。


しかるに、そのLに限らずある音の複数の発音を覚える必要など全く無いのだ。ただただその音を覚えれば、前後の関係で変化する響きもまた「オートマティック」に得られるのである。


また、英語ネイティブが英語を発する時に「準備音」あるいは「予備音」と呼ぶべきか、必ず目的の音を出そうとする状態に向かう時に、すでに音にならない音が鳴っている。


それをジーナは「ルート音」と名付けた。「根本」を意味するrootから名付けたのだ。

 

この概念も、確かにそれを英語ネイティブはやっているにもかかわらず、あくまでも無意識でやっていることなので、明確に指摘したのは画期的なことだ。この辺りはジーナの真骨頂だと言えよう。


音が準備され、生まれ、そして消えてゆく過程を通して記号化するということは、音の弁別的要素がそれによって発生する仕組みを内包する必要がある。

 

そのためにも、音を響かせる位置が喉の中での上と下のエリアのどちらかということも一目瞭然になっていないといけないのだ。


思考錯誤の末、二人によって考えだされたものは、音を表現する発音記号というよりは「音の仕様書」ともいうべき画期的な表記法だった。


その表記法は次のようなルールを伴っていた。


日本語に存在している音はアルファベットの大文字で表され、存在しないものは小文字で表す。また、喉の下部エリアで発音するものは母音子音、日本語に有るか無いかを問わず、文字にアンダーラインが引かれる。

 

つまり日本語のアを喉の上部エリアで発音する場合「A」となる。日本語にないcan’tのaは小文字の「a」だ。日本語になくて、しかも喉の下部で響かせるcat の a は下線付きの「a」になる。


日本語にある音なら、あとは喉の上部か下部のどちらかで発音すればよいか分かればよいので比較的理解しやすい。しかし、日本語にない音は日本語を使って説明が出来ないので、どうしても音声付録に倣ってそれを「真似」るやり方をとらざるを得ない。


日本語の音を使いつつ、微妙に違うと断わりを入れながら、無理やり説明している教本もあるが、やはりそれは実態を反映しないので彼らはその手法は避けたかった。


「真似る」とは抽象的だからちゃんと説明すべきだという者も出てくるであろうと思われた(実際に出版後にそういう声も出た)が、日本語に無い音を有る音で説明するのは実際不可能である。

 

一方、音を真似て覚えてゆくのは、どの国の者も幼児期にそれで覚える自然なやりかたである、と二人は確信を持っていた。


上川は慎重には慎重を期して考えた。


仮に無理やりカタカナを使った表現で伝えようとしても、中途半端に示されるだけで「実際は違う音のニュアンス」が生む先入観によって返って妨げになるとも思える。

 

それぐらいに神経質にならざるを得なかったのは「透明人間」の辛酸を舐めた上川だからこそのこだわりとも言えるだろう。


日本語にない音だからこそ、真似るべき音に関してはあくまで音声サンプルで伝え、中途半端な説明はしないという方針を立て、それを貫く覚悟を上川とジーナは決めた。


無論、物理的部分である舌の状態や口の開け方等々の文字で伝えられる範囲は、必要に応じて説明を入れるのは当然だとも、彼らは考えていた。


そうやって完成した新しい発音記号が「ネイティブ発音記号」である。これは大袈裟ではなく画期的な発音表記方法である。これを使えば英語ネイティブがやっている発音法をそのままに再現できるのだから。

 

喉発音を表現するので「喉発音記号」と読んでもよいかも知れない。


従来の教本が結果的に「似せる」やり方のマニュアルであり、そういう意味で限界があったのに対し、上川とジーナのメソッドはずばりネイティブのやり方を「真似る」ことで身に就けてゆき「まったく同じ」になることを目指せる教本だという天地の違いがある。


鹿野崎教授がいみじくも表現したように、まさに既存のマニュアルは根本が欠落した天動説であり、上川とジーナのメソッドこそが地動説だと言えよう。


「ネイティブ発音記号」が体系化された後、次なる課題はその記号を使いつつ加えるべき説明において、喉の上部と下部のふたつのエリアのことをいかに伝えるかで二人は悩んだ。そういう観点でのエリアの名称は未だかつて存在しない。


しかし日本人の英語にとって最重要項目でもある「喉」に関しては、伝え難いことを何としても伝えないことには、前に進めなくなってしまう。まさにこのメソッドの要なのだから。


そして果たせるかな、これに関しては上川が後世の歴史が称賛するであろうほど見事な、誰にでも伝わる表現を考えついたのであった。 

 

 

『喉の旅』既刊 

筆者MASAのKindle本

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自費出版(紙の書籍)のリスクと回避法&電子書籍自費ゼロ出版のススメ

40いわゆる自費出版(紙の書籍)には様々なトラブルのリスクがある。

 

「詐欺」やそうでなくとも出版社につけ込まれたり、それをクリアしても、納得いった出版になるかどうか保証はない。それでもどうしてもチャレンジするなら最大限トラブルを避ける対策を施して臨むしかない。
 

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自費出版の夢と現実

 

「いつかは自分の本を世の中に出したい」

 

そう願う人はたくさんいるが、いわゆる紙の書籍による「自費出版」には多額の費用が必要になる。

 

また、出版する方法や提携する業者にもよるが、おおむねその金額は安くても数十万円から場合によっては数百万円にものぼる。

 

それだけではない。

実は自費出版とは結構な確率で、大小さまざまなトラブルがつきものなのである。

 

出版を希望する人たちの夢や情熱が懸けられているところにつけこんで、食い物にしようとする出版事業者も残念ながら存在する。

 

もちろん、すべての事業者が悪質なわけではない。真摯に取り組んでくれる誠実な会社もたくさんあります。しかし、その上でもトラブルは起こり得る。

 

熱意や情熱はとても大切なのだが、こと契約ごとに関してはあくまで沈着冷静に対応しなければならない。

 

このコラムでは自費出版で起こり得るトラブルのパターンを説明し、そういう事態を避けて納得ゆく出版にするための対策を紹介し、その上で電子書籍のセルフ出版に言及する。

自分の本の出版を検討している人はぜひ参考にして欲しい。

 

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自費出版の3大トラブル

 

自費出版の途上でトラブルが発生するのには、大小さまざまなパターンが存在する。そしてそれらが絡み合ってトラブルを深刻にするのである。

 

しかし元を正せばおおむね3種類に分類できる。ここでは3つの代表的なトラブルを紹介しておこう。

 

その3つとは・・・

  • 契約内容の行き違いが生むトラブル
  • 出版社がおだててつけ込むことが生むトラブル
  • 制作・流通過程のトラブル

それぞれのパターンの実情をもう少し詳しく解説しよう。

 

 

契約内容の行き違いが生むトラブル

「費用の一部は出版社が負担いたします」「書店の販売網に乗せることができます」などと謳う出版社がしばしば見受けられる。それに乗るとかなりの確率でトラブルが待ってる。

典型的な例を挙げてみよう。

 

トラブル例 Bさんの場合

 

制作費用が気になっていたBさんはその出版社を信頼して自分の本の出版を託した。

ところが、いざ作業が始まると「この部分には追加料金が〇万円かかります」「この材質の紙を選ぶ場合はあと〇万円かかります」「この装丁にはさらに〇〇万円が必要です」と、どんどんオプション料金の請求が増えていくではないか。

そしてオプションは作者の負担になるということだった。結果は最初に言われた金額の倍以上に膨れ上がった。

 

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出版社がおだててつけ込むことが生むトラブル

 

出版社が「おだててつけ込む」・・・個人においては「おだてられてつけ込まれる」パターンは、すべてではないにせよ前述の契約内容に関するものよりも、出版社が確信犯的な部分もあったりする。場合によっては詐欺に近い悪質なものもあるのだ。

そしてつけ込まれた先に起こるのは、前者のような食い違いのさらに作為的で深刻なトラブルである。

典型的な例を挙げてみよう。

 

トラブル例 Kさんの場合

 

推理小説を書いてみたいと以前から思っていたKさんは、いつも購読している雑誌で「推理小説コンクール作品を大募集!受賞作は出版を約束」というお知らせを見つけた。

Kさんはさぁとばかりに、熱意に燃えて真剣に書き上げた作品を投稿した。残念ながら受賞は逃したが、出版社から電話があった。

 

「あなたの作品は残念ながら受賞はできませんでしたが、非常に素晴らしい作品だというのが私どもの感想です。どうです、自費出版してみるつもりはありませんか」

 

先方が言うには、彼らから執筆内容に関して丁寧なアドバイスが受けられて、自費出版でも書店流通に乗せることができるとのことだった。

「少し手を加えれば、そこそこのセールスが見込めるクオリティですよ!本当のところは費用が300万円かかる出版なのですが、あまりによい作品だから50%は弊社が責任を持って分担します。ちょっと売れればスグに回収できるので、いかがですか?」

 

ここまで言われたKさんはその気になって、個人の貯金から150万円という大金を投げ打った。

そして、結果は一体どうなったか・・・?

 

ほとんど売れずに、後悔だけが残った。もちろん売れないからといって出版社に文句を言うわけにもいかない。言ったところで、それが市場の評価だと言われるだけだ。

先方が持ったという半分も怪しいものだ。見積もりなど素人相手にどうにでも書けるから、おそらくその出版社はKさんからの出費で利益を上げているのに間違いないだろう。

 

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 制作・流通過程のトラブル

 

信頼ができる良心的な出版業者と契約を交わせたとして、その後制作を進めていく中でのプロセスごとのトラブルのパターンを挙げてみよう。

 

編集作業過程のトラブル

 

自費出版をする場合、契約後に原稿の編集作業に入るが、自分自身で執筆している場合は担当の編集者に原稿を委ね、校正を何度もおこなう。

 

この過程で原稿の内容が大幅に削られたり、意図とは違う校正原稿が上がってきたりすることがある。そうなると作者にとって考え方が否定されたような気持ちになり、編集者と揉めかねないのがこのプロセスだ。


製本過程のトラブル

 

校了、すなわち原稿の編集や校正がすべて終わると、本としての装丁や帯文などの装飾部分を作る製本過程に入る。読者の目を引き、手に取ってもらえるかほぼ決定づけてしまう大変大事な作業と言える部分だ。

 

装丁作業は大抵は編集者ならびにデザイナーの共同作業で進められる。帯文は出版業者が社内および社外で適切な人を探すのが常だ。

 

深い専門知識や実践経験が必要な作業でもあるので、作者はこの過程を出版社業者に一任するケースもあれば、作者の意向を最優先で進めるなどさまざまである。

どちらの手法でも間違いではないが、丸投げは避けたいものだ。不本意な製本になっても後の祭りだから。


流通・販売・広告過程のトラブルと対策

 

製本された完成書籍は、書籍の流通・販売網に乗るが、自費出版ではとりわけこの過程にしばしばトラブルが発生する。

 

すなわち、かたや出版社が自社の利益を上げるために高額の費用をかけて戦略的に流通させる商業出版書籍、かたや限られた予算で少量製本した自費出版書籍となると、企業としてはどうしても前者が重んじられて配本される傾向にあるのは否めない。

 

また、たとえ配本されたとしても、流通先の書店のスケールや地域性ゆえに偏った部分があったり、書店愛でも目立たない場所に陳列されたりする。


すると、結局売れ行きが芳しくなければ売り上げが悪くて返品されたりしてしまうこともある。

 

このポイントは書籍を発行する出版業者がどんな風に流通させるのかは、絶対に前もって確認しておく必要があるということだ。

 

確認すべきは流通先の書店の数や書店のスケールだけではなく、目立つ棚のところに書籍を置くことができるのか、取次業者に任せっきりにせず出版業者が書店に強い立場で配本数を増やしてくれるかなど、その出版業者の実力や流通へのこだわりを聞いてみよう。

 

なかには広告の掲載によって、販売数を増やす手法もある。作者自身が世の中にまったく認められていない場合、書店の棚に並ぶだけで販売数を獲得することは不可能に近い。

 

出版予定日のタイミングで新聞等の媒体に広告を載せて、幅広く認知されるアプローチをするとよいだろう。

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 自費出版上のトラブルと対策

 

一般的に「自費出版」と呼ばれている場合の多くが、実は「自費印刷」に過ぎないのである。下手すると業者の食い物にされているだけで、実際には本が店頭に並ばない詐欺まがいのビジネスも存在する。

 

そういうトラブルや被害に決して遭ってはいけないので、見破り方や対策も含めて言及しておこう。これには「自ら出版社に依頼する場合」と「出版社からアプローチされた場合」に分けて解説しよう。


自ら出版社に依頼する場合

 

自分から出版社に依頼をするのには覚悟が要る。何かが起こっても基本的に自己責任になるからだ。それをわきまえた上での対策を解説しよう。

詐欺まがいの出版社かどうかをあらかじめ見極める方法

 

そこそこの大金を投入して自分の作品を託そうという出版社や事業者が、本当に信頼に足るものかというのは、非常に重要なことだ。

 

実は単に印刷業者であって、出版などしていない・・・そんな詐欺まがいのケースも考えられるのだから、気をつけないといけない。残念ながらいつの時代でも、どこにでも善良な市民を食い物にしようとするハゲタカのような悪徳業者は存在する。

 

そんな輩には絶対に引っ掛かってはならない。

 

本当に書籍を出版したいのであれば、いかがわしい出版業者に引っ掛かったらお金をドブに捨てるようなものなので、重々注意が必要だ。

 

そのようないかがわしい業者かどうかをあらかじめ見極めるのは、実は簡単なのだ。

もし自費出版のアクションを起こす場合には、取り次ぎを依頼する選択肢としての出版社が挙がったら、次の方法で絶対に確認をしておいて欲しい。

日本書籍出版協会の「出版書誌データベース」検索ページにて、その出版社の名前を入れて検索すれば、詐欺まがいか信頼できるかが判明する。

 

何らかの本を書籍として流通させているのなら、必ず検索結果で出てくるはずです。もっと言えば、出版物が五千書を超える場合は多すぎて対応できない旨のメッセージが出てくる。

 
そこでその出版社や業者が出てこなければ、そもそも書籍など書店で流通させていないということになる。

 

そしてさらに言えば、検索で何らかのものが出ていたら一応は信用できるとしても、必ずしもその出版社の本が書店の店先に並んでいると言うことを意味するわけではないのだ。


ただシンプルに注文可能であるということを意味するのみであり、実際に書店の店頭に常に本が陳列されている状態にするというのは、実は大変難しいことなのだ。

 

それなりの販売が期待できるものでなければ、店頭に置かれないのが常だからである。

 

その分野の出版物を探す折に、その出版社が思い浮かぶとかその分野で認知されているかとどうかがまず大事であり、たとえば中近東の旅行記を出版したい場合なら、中近東の旅行記を注力して出している出版社に相談するのがまず手堅いだろう。

 

その出版社がまっとうに書籍を世に出しているとしたら、あとはホームページなどを精査して、その出版社の理念などを見極めるのが大切だ。


 信頼ができる出版社や担当者を選ぶことが大事

 

自費出版を出版社や出版事業者に依頼するのは、あくまで「個人」だ。普通の人は出版にも契約にも不慣れだろう。そういうところにつけこんで食い物にしようという動きは、個人対企業において至るところに潜んでいると考えよう。

 

執筆の熱意や時間、そして多大な費用をかけてせっかくチャレンジした自費出版が、詐欺まがいの状態に遭ったり悔いが残る中途半端な結果を生まないように、依頼先としては確実に信頼できる会社を選ばないといけない。

 

納得するまで説明を求める

 

トラブルを避けるためには、まだ検討の段階であっても少しでも不審なところや理解できないところがあるとしたら、絶対にうやむやにしないで問い合わせて、納得できるまで説明をもらおう。

 

そうすれば内容が明らかになっていくうえに、相手の会社および担当者がどのぐらい誠実なのかも実感できることになる。

 

もし色々な質問をうるさがって、答えることをおざなりにするような担当者や会社は敬遠しよう。また、可能な限り口頭で終わるのではなく、書面として残るような形で確認ややり取りをするとなおよいだろう。

 

相手のいいなりに印鑑をつくのはとにかく危険である。

必ず細かいところまで内容を確認するのは必須だ。「何となくわかった」程度で話を進めるのは絶対に避けよう。

 

悪質な場合は、見積もり書の内容あるいは資料に書かれていることと、実際の契約書の内容が食い違うというケースもある。

 

契約というのは非常にシビアなものなので、何度も何度も納得できるまで読み返して、さらにもう一度読み返すぐらいの慎重さでちょうどよいぐらいだ。

 

第三者の目も利用しよう

 

また、自分ひとりだけではなく、家族や友人、信頼できる知り合いや法律のプロフェッショナルに相談してみるのもよいだろう。

 

あなたができることは正しい知識によって質問攻めにすることに尽きる。どんな些細なことでも、徹底的に質問して自分の納得がいくまで説明をしてもらおう。

 

心から納得ができれば、契約の印鑑を押してもよいだろう。営業担当者たちも出来ればトラブルは避けたいはずだから、まっとうなやり方で進めていけばきちんと対応してくれるはずである。

 

担当者が悪人には見えないというような理由で、安易に決めては絶対にいけない。検討する時点でビジネスはもう始まっていることを、忘れないようにしよう。

 

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出版社からアプローチされた場合

 

出版社からのアプローチで「あなたの本を出版させてください!」「よい本なので出版しませんか?お力添えしますよ!」という話の中で、詐欺まがいのものがあるのは事実だ。

 

こういうことは音楽関係のCD制作出版業者でも同じ構図でよくある話だ。パターンとしてはスカウト的なアプローチで「あなたの音楽は売れそうだからメジャーデビューしましょう、そのためにはこれこれこれだけのお金が必要です」というやり口である。

 

これが書籍関係でもしばしば起こる。

 

ほとんどその目的のためのコンクールも存在する。これらはある意味、一部で見られるような、タレント志望者からレッスン料や研修料をむしりとるために運営するタレント養成スクールにも似ている。

 

前項の注意点に照らしたうえで、よほどの信頼を感じられる場合でもない限り、このパターンは敬遠した方が無難だろう。

 

あなたがもしプロの作家になるつもりなら、別方向のおすすめの方法がある。紙の書籍へのこだわりを捨てて電子書籍で自費ゼロで出版することだ。これに関しては次の項でより詳しく触れていこう。


自分でやれば自費ゼロで出版可能

 

自費出版をするなら紙の書籍の「書店流通」よりもインターネット書店、なかでもAmazonへの出品がおすすめである。

 

そしてさらには、紙の本へのこだわりも理解はできるが、今の時代の趨勢から言えば、どう考えて電子書籍の自費出版おすすめであると、経験者の私がはっきりと断言しよう。

 

もっと言うと、電子書籍の中ではアマゾンのキンドル・ダオレクト・パブリッシングがセルフ出版として最もおすすめできる。なぜならWordのノウハウだけでできることと、売れ方がやはりアマゾンが格上だからだ。

 

自分の本を世の中に発信したいと思うのであれば、Wordで作成してキンドル・ダイレクト・パブリッシングの活用をし、すぐにでも出版できる。


その上、書店での販売可能性よりも、アマゾンへの出品によるあなたの書籍が世の中の人たちの目に触れる可能性は間違いなく高まる。

 

Amazonでのキンドル・ダイレクト・パブリッシングのためにWordでキンドル書籍としての体裁にするノウハウは筆者の下記の書籍で詳しく説明している。

 


おわりに

 

自費出版を夢見る人は、それが多額の費用と労力が必要であり、しかも回収の見込みはとてつもなく薄いことを覚悟する必要がある。

 

そのうえ、詐欺ではないにせよ出版業者につけこまれるという人為的なリスクもあることも、同様に覚悟のうえで臨まなければならない。

あくまで自己責任なので、覚悟のある人はチャレンジして可能な限り出版社との行き違いを避けて出版されることを望む。

 

それには、この記事で挙げたトラブル対策を念頭に慎重に進めて欲しい。そこまで覚悟することに違和感を感じる人であれば、電子書籍やnoteなどの他の選択肢を考えるのもよいのではないだろうか。

 

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ビートルズ曲中でクラシックギター歴史的名器にて劇変し情緒溢れる名曲になったのは?

ビートルズ画像

 

And I Love Her

 1964年2月25日~27日収録

 

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情緒溢れる初期の名曲

 

ビートルズの「アンド・アイ・ラブ・ハー」はアルバム『ア・ハード・デイズ・ナイト』の中でもとりわけ情緒たっぷりで印象深い、ポール・マッカートニーによる曲である。

 

メロディの美しさや甘く切ないボーカル、コーラスラインの秀逸さはもちろんだが、この曲の決め手となるのは何と言ってもジョージ・ハリスンが奏でるガットギターの素晴らしい音色による彩りである。

 

映画『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ! 』の中のテレビ局のシーンでも、スタジオ内でこの曲の演奏をテレビ撮影している部分がある。そこでもジョージがガットギターを、非常に粋な佇まいで奏でている。

 

 

 

当然だが、そのシーンも含めて映画の中の演奏はレコードの音にlip-syncing、口パクでボーカルを(楽器も同じく)合わせて撮影している。

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 完成前のバージョン

 

実はこの曲の完成前のアレンジによるバージョンは、完成形と比べて全然印象が違うのである。このコラムの冒頭にURLを掲載したバージョンがレコード用の完成形である。

 

ぜひ一度、下記のAnthology 1のVersionを聴き比べてみて欲しい。

 

 

どう違うかというと・・・

 

ジョージがガットギータで弾いている印象的な部分が「無い」か「エレキギター」「12弦ギター」にて弾かれていて、最終形を知らなければ決してダメとは思わないが、知ってしまうと、もうまったく完成度が違う。

 

具体的にはまずイントロだが、完成版のガットギターで始まりジョンのギブソンJ-160Eのコード・ストロークが追いかける4小節のイントロも、完成前はガットギターの音は入らず、単にジョンのコード・ストローク2小節のみであり素っ気ない。

 

次に、完成版の2コーラス目から入るガットギターの音色が心に沁みるようなアルペジオ(分散和音)は、完成前はエレキギター(おそらくグレッチ・カントリージェントリマン)で弾かれており、全然印象が違う。

 

そして、完成版のガットギターによるシンプルで味わい深く、優しい弾力性に富んだ音色の間奏は、完成前は同じフレーズがリッケンバッカー360/12、12弦エレキギターで弾かれている。

悪くは無いが、曲想とのマッチングは完成版のガットギターの方が遥かに優れている。

 

さらには、完成版でのサビの「A love like ours could never die」に先駆け小節の頭にボロロンと弾き下ろすコードが非常に効果的だが、完成前はそのサビ自体が無かった。

 

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ビートルズに一番近い男

 

ざっと挙げただけでも、曲の印象を決定づける多くの箇所での効果が違いすぎるのである。

 

さてこのパワーあるガットギターは何者か?

 

実はスペイン製の「ホセ・ラミレス(Jose Ramirez)」という「歴史的名器」の部類に属する高価なギターである。

現在の価格は安いものでも数十万円、高いものは数百万円もする代物だ。それぐらい出してでもその音色が欲しい音楽家がいるという、超ツワモノのギターである。

 

映画の映像の中でホセ・ラミレスを爪弾くジョージがアップとなった時に、ガットギターのサウンドホールから中に貼られている「Jose Ramirez」のロゴが確認できる。

 

このギターをジョージは、ドイツ出身のベーシストにして画家であるクラウス・フォアマン(Klaus Voormann:英語読みでヴーアマンとも呼ばれる)からプレゼントされたのだ。

 

ビートルズはドイツのハンブルグでの巡業中にフォアマンと出会った。その後のフォアマンはビートルズと縁が深く、「ビートルズに一番近い男」と呼ばれている。

ビートルズ中期の名作アルバム『リボルバー』のジャケット・イラストを描いたことでも知られている。

 

ビートルズ画像

 

向かって右下のジョージの頭の上に、顔だけ出している自分自身を描いている茶目っ気のある人物だ。これはすぐにジョン・レノンが気が付いて指摘したそうだ。

 

ラフ段階での『リボリバー』ジャケット・イラスト

 

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フォアマンとアストリッド


クラウス・フォアマンはジョージとリンゴと一緒に同居していた時期もあり、そういう訳でジョージとは特に親密であった。

 

また、ジョンの『Imagine』やジョージの『All Things Must Pass』ヨーコ・オノの『Plastic Ono Band』などの1970年代ロック史上に残るアルバムにベーシストとして参加している。

 

ジョージ・ハリスンと、ジョージが師事したインドのシタール奏者のラヴィ・シャンカールが主宰したバングラデシュのチャリティコンサートにもフォアマンはベースで出演している。

当時は確か音楽ジャーナリズムの中では「クラウス・ブーアマン(ヴではなくブ)」として紹介されていた。

 

余談だが、フォアマンはビートルズとハンブルグの地下にあるクラブで出会った頃、いつも一緒にいたのはアストリッド・キルヒャーだった。

アストリッドは女性写真家であり、彼らに脱リーゼントの髪型を提案した人物だ。そしてフォアマンは彼女の「元カレ」だった。

 

彼女は当時ビートルズのベーシストであった眉目秀麗なスチュアート・サトクリフに惹かれ、サトクリフも彼女に好意以上のものを抱き、二人は恋に落ちる。

サトクリフはその後アストリッドの影響を受け、画家を目指してビートルズを脱退する。

 

その結果、ギターを弾いていたポール・マッカートニーがベースに転向することになる。このあたりの巡り合わせもひとつ違うと、ビートルズの影響力を考えれば、今とは違った歴史の流れになっていたであろう。

 

1961年春にはドイツにてアストリッドと暮らしながら、奨学金を得てハンブルク美術大学に通うが、1964年4月に脳内出血で夭逝することになる。

 

オノ・ヨーコによればジョン・レノンは生前、スチュアート・サトクリフの名を度々口にし、偲んでいたようだ。そしてアストリッドから形見分けされたサトクリフの遺品であるマフラーを、生涯手放さなかったと。

 

ビートルズ画像

サトクリフとアストリッド

ビートルズの「ベイビーズ・イン・ブラック」はサトクリフが急逝して悲しみに明け暮れる「喪に服した(in black)」アストリッドのことを歌った物悲しい曲である。

 

この辺りのことは、いつかアルバム『ビートルズ・フォー・セール』周辺のエピソードを書く時に避けては通れないので、この辺りにしておこう。

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歴史的名器ホセ・ラミレスの威力

 

さて、その「ホセ・ラミレス」の話に戻ろう。

 

クラウス・フォアマンの回想によれば、1963年にスペインのマドリードに行った折に、そのガットギター「ホセ・ラミレス」をとても気にって購入した。

ロンドンに戻って、ジョージ・ハリスンの前でそのギターを弾いた時に、その音色にジョージが「ノックアウト」されたということだ。

 

「だからジョージにあげたんだよ」

超高価なギターを、ジョージが気に入ったからとあっさりと贈呈するとは、やはりビートルズ周辺の人物もただものではない。

 

そのギターを引っさげての収録により、俄然楽曲の彩りが深くなったのはお聴きの通りである。 

 

アレンジとは楽曲を一変させる恐ろしいものだとは分かっていたが、この場合はアレンジ以前に使用楽器の「音色」によって曲想が大いに様変わりした顕著な例だと思う。

 

音楽は奥深い・・・。

 

※ アルバム『ハード・デイズ・ナイト』フルプレイリスト  

※ 筆者のビートルズKindle本

 

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ビートルズ初主演映画主題曲ア・ハード・デイズ・ナイトの興味深い3つの謎を解く!?

 

ビートルズ画像

A HARD DAY'S NIGHT

 1964年4月16日収録

 

 Contents

 

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ア・ハード・デイズ・ナイトの謎

 

初期ビートルズきっての大ヒットチューンであり、初主演映画の主題曲でもある「ア・ハード・デイズ・ナイト」はビートルズらしさが満開の素敵な曲だ。

 

ブルーノート(音階の第3音と第7音を半音フラットさせた物悲しくブルージーな音)とダイアトニック(通常のドレミ)をバランス良く組み合わせて、彩りを添え、絶妙にハイセンスなコーラスワークで聞かせる、初期の白眉の曲と言えるだろう。

 

といころで、この名曲には、昔からコアなファンやビートルズ・マニアの間で囁かれる不可思議で謎めいた部分があった。

 

それは・・・

 

  1. 不思議なイントロとアウトロにした訳は?
  2. タイトルは本当に文法的におかしいのか?
  3. 間奏のピアノを1/2速で録音までしてなぜ入れたのか?

 

ファンでもない人には「なんのこっちゃ」「どーでもいい」って話なのだが。(笑)

それでもこのコラムはコアなファンによるコアなファンとこれからのファンのためにあるので、気にせず掘り下げることにする。

 

では、ひとつひとつの詳しい意味合いと、数々の関係者の証言や回想からの「解明」もしくは「推理」を紹介するが、あくまでひとりのコアなファンの個人的な解釈も含まれると思って読んで頂ければ幸いである。

 

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不思議なイントロとアウトロにした訳は?

 

この曲はイントロがあの有名な「ジャーーーーーーン」の、強烈で独特の和音で有名だ。そしてアウトロ、つまりエンディング部分が不思議なアルペジオ(分散和音)が繰り返されてフェードアウトする。

 

このパターンは他では見られないユニークなものであり、それも「ビートルズらしさ」で片付ければそれまでなのだが、この突然変異的なイントロとアウトロの出どころについてだ。

 

実はこのイントロとアウトロは、くだんの主演映画『ハード・デイズ・ナイト(旧邦題:ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ! )』の監督であるリチャード・レスターであった。

 

これはビートルズ担当の音楽プロデューサーであるジョージ・マーティンの証言でわかったことだ。

 

ビートルズ画像

ジョージ・マーティンとジョン&ポール

 

EMIレコーディング・スタジオで録音をしている時にリチャード・レスター監督がコントロール・ルームに陣取って、やり直せだのああせよこうせなどの無茶な要求を出していたのだ。

 

彼は音楽は畑違いなのであるが、自分が監督する映画の主題歌なので、当然指示する権利があると信じて疑わなかった様子だと言う。

 

ジョージ・マーティンは苦々しく思いつつもそこは百戦錬磨のベテランなので、ほとんどの要求をニコニコと聞くふりしながら実際は無視した。

 

しかしイントロの強烈な和音と、印象的なアウトロの要求だけは聞かざるを得なかったので、ともかくビートルズと相談して半ば即興で作り上げた。

 

なぜ無視できないかと言うと、監督の要求には一理あり、イントロ=1発目の和音は物語の始まりを強烈に告げてゾクゾクさせるという狙いである。

 

アウトロのアルペジオは最初の和音を分散して鳴らし規則的に繰り返してフェードアウトすることで、次なる場面に移行しやすいというのである。

 

至極まともで、見事な演出プランでもあり、結果的には楽曲としてもイントロとアウトロの印象深さは功を奏している。

 

いかなる場合も「持って」いるビートルズなのだ。

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タイトルは本当に文法的におかしいのか?

 

この曲のタイトルの由来でまことしやかに伝えられているのが、リンゴ・スター発言を面白がるジョン・レノンが「それ頂き!」とばかりに使ったと言うものだ。

 

もう少し細かく言うと、従来の説はこうだ。

録音とステージに追われるビートルズの多忙極まるスケジュールの中で、ある時リンゴが「It’s a hard day...」と言いかけて、外を見たらもう夜だったので「's night」と付け足した。

ジョンは「文法的にはおかしいがその表現を気に入って」タイトルにしたということだ。

 

文法的におかしいというのは、「day」は「昼」なので、day's night という言い方は破綻しているということとして伝えられている。過去にこれを聞いて「え?」と思った諸兄も多いと思う。

 

まぁ、それが流布したのは昔の話になるので仕方ないが、「day」は「昼」という意味だけではなく立派に「日」の意味を持っているので、それ自体は文法的に破綻しているとは言い過ぎである。

 

ここからは筆者の推理で申し訳ないが、ジョンが本当に「文法的におかしいが」と言ったのであれば、それは「day」が「昼」だからという事ではない。

 

この部分はきっと勝手に日本人の誰かが解釈した付け足しであり、ジョンが「文法的に」ツッコミを入れたのは、普通なら「a night of a hard day」となるところを所有格の'sで表現したユニークさだろう。

 

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間奏のピアノを1/2速で録音までしてなぜ入れたのか? 

 

この曲の間奏はジョージ・ハリスンの12弦ギターとジョージ・マーティンのピアノがユニゾンで弾いている(とされている)。

 

通説ではこうである。

マーティンがフレーズを弾き切れなかった。そこで(当時はデジタルではなくアナログテープでの録音なので)1/2の速度でテープを回しながら、同じく1/2のテンポでゆっくり、ただし本来の音の1オクターブ低い音で録音したというものだ。

それを通常速度で再生すると違和感がなくなる。

 

そうやってマーティンが弾けるようにした、というもっともらしい理由である。

 

しかしそれを覆した新事実(笑)がレコーディング・エンジニアのジェフ・エメリックの回想で明らかになった。

 

ビートルズ画像

ジェフ・エメリック

 

ジェフによれば、こうだ。

ジョージはその日の録音で、間奏の短いギター・ソロがどうしても納得いかなかった。だから(前述のように)テープ速度を1/2に落とし、本来弾きたい音の1オクターブ低いフレーズでゆっくりと弾けるようにして録音したと。

 

ただし、その時点でマーティンがユニゾンのフレーズを弾くことになり、ところがテープの空きが1トラックしかなかったので、二人のジョージが一緒に「息を合わせて」「念入り」に録音したとのことだ。

 

さて、さらなる新事実として、YouTubeでこの曲を低速に設定して再生してみると面白いことがわかった。

 

実はジョージはその部分を12弦ギターで弾いていないのだ。嘘だと思われる諸兄は、ぜひYouTubeで低速再生して確認して欲しい。

 

あれは6弦ギターである。おそらくグレッチ・カントリー・ジェントルマンで弾いたのであろう。

 

そうなるといくつも?が浮かぶことになる。

  • ジョージが納得しない
  • 低速で録音
  • 急遽マーティンのピアノをユニゾンで同時に「ぴったり息を合わせて弾き」足す
  • 実際は6弦ギターで弾いている

これらがしっくりとつながらないのだ。

 

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或る物書きの推理

 

ジョージが納得できないのは、買ったばかりのリッケンバッカーの12弦ギターにまだ馴染む前で(後のライブではちゃんと弾けている)弾きにくかったからとすれば、低速にするとして、なぜ6弦ギターで弾いたのか?

慣れている6弦ギターで弾くぐらいならならいくらなんでも、あのフレーズぐらい通常スピードで弾けるであろう。低速にする意味がない。

 

そしてなぜその時点で、急遽ジョージ・マーティンがピアノで、しかもユニゾンで参加したのか?

ここで通説に戻ってマーティンが弾きこなせないから低速で録音というのなら、ジョージのギター・パートはそれこそ低速であれば12弦で弾いてよさそうなものである。

 

普通のスピードで6弦で弾くか、低速で12弦なら理解はできるが、どちらでもないのはなぜだろうか?

 

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リッケンバッカー12弦ギターを弾くジョージ

 

どうでもいいことかも知れないが、謎が謎を呼ぶ流れなのだ。

そして筆者は推理の末にある結論に到達した。上記の4点の疑問をすべてクリアする「解」だ。

 

それは、すべての発端が・・・ジョージが納得できなかったのは弾きこなしてないからではなく、リッケンバッカーの12弦の弱点であるチューニングなのだ。

 

弾いたことがある人はわかると思うが、リッケンバッカーの12弦ギターは一般的な12弦ギターと違って、各複弦がなんと同じブリッジの駒を通るのである。駒が6つしかないのである。現在は駒が12個のオプションモデルあるのだが、当時はなかった。

 

そうなると、そうでなくても弦高が高めのリッケンバッカーなので、開放弦以外の状態でフレーズを弾くと、複弦同士のチューニングが合いにくい。ブリッジの駒では調節不可能なのである。

 

そしてあのフレーズは同じ音で1小節伸ばすところが4箇所出てくる。早いパッセージだけなら気にならないが、1小節伸ばすとさすがにチューニングが狂っているのがわかるのだ。ライブならそこまで気にならないとしても、レコードなのでNGと考えられる。

 

しかしジョージは12弦ギターで始まり12弦ギターで終わるあの曲の間奏も、12弦ギターで通したかった。

そもそもあのアルバム自体、アメリカに行った時にリッケンバッカー社からプレゼントされたあの12弦ギターが、結構印象的な味付けをしているのである。だからジョージは12弦のサウンドで間奏を弾きたかったのだ。

 

そこでジョージ・マーティンが、12弦ギターの複弦の高音部分をジョージが6弦ギターで弾き、12弦ギターの複弦の低音部分をマーティンがピアノで弾くことで、12弦ギターっぽいサウンドが得られるはずと考えた。いわゆるオクターブ・ユニゾンである。

 

しかしそれにはそうとう「ぴったり息を合わせて」弾かないとそう聞こえないと考えて、苦肉の策で低速録音の手法で「念入り」に録音したということだろう。

 

そうでもなければ、あのシンプルなフレーズの間奏ぐらい、ギターもピアノも低速でなくとも二人のプロフェッショナルなら弾きこなすであろう。

 

マーティンが弾きこなせない説は、後の『ラバー・ソウル』アルバムの「イン・マイ・ライフ」でのハープシコードに聞こえるマーティンのピアノソロが、複雑で早いパッセージのために低速で録音した事実があるので、そこから出たのであろう。

「イン・マイ・ライフ」のピアノなら通常スピードで上手く弾きこなせないという話は納得できる。

余談だが、この「イン・マイ・ライフ」では再生時にピアノの残響、つまり余韻も1/2になるので、しかも結果的に高音のフレーズになったので、ピアノなのにハープシコードのようなサウンドになったのだ。

「ア・ハード・デイズ・ナイト」のピアノ部分は低音なので、その効果はなかった。

 

その手法で録音されたあの曲の感想は、見事に12弦ギターの独特なサウンドに聞こえるような仕上がりだ。しかもピアノの存在感もあるので、重厚な間奏になっている。

 

以上の3つ以外にも小ネタ?小謎はある。

なぜサビだけポールがリードに変わるのか?

これはジョン自身が説明しているが、音程が高過ぎてポールの方がうまく歌えるかららしい。

 

つまり、自分が作りリードボーカルを取る曲でも、完成度を上げるためならそういうことジョンはこだわりなく平気でやるのだ。

 

とまぁ、どうでも良いことをマニアックに掘り下げて楽しんでいるコラムに、最後までおつきあい頂き、誠に感謝に堪えない。

 

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今スグ使える生きた英語 第13回ネイティブが会話で使う3種類の目標とは?

 

このシリーズは学校の授業では習えない、今を生きる英語ネイティブ達が日常で普通に使う言い回しを筆者自身の経験を通して選び、紹介するものである。ネイティブとの会話や、英語圏のメディアでしばしば出くわす表現など、覚えると使い道が多い便利な言い回しを知っておこう。

 

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 Contents

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3種類の目標とは?

 

ネイティブがよく使う「目標」の難易度の表現を紹介する。

実際に複数のネイティブたちが、会話の中で使っていたものだ。

 

easy goal  

簡単あるいは優しい目標のことである。楽勝で達成できる範囲の目標はこのように表現される。

 

A:  I've got to pass the interview next week !

B:  Well, I think it's an easy goal for you. 

A:  来週の面接試験に何としても合格しなくちゃ。

B:  ああ、君ならそれは優しい目標だと思うよ。だって君はそれはそれは一所懸命に勉強したじゃないか。

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challenge goal

頑張れば手が届きそうな目標のこと。一般的な目標はこれを指すことが多い。訳すとしたら「チャレンジ目標」となるだろう。

 

My challenge goal is to defeat him in the game by the end of this year.

僕のチャレンジ目標は年内に、試合で彼を打ち負かすことだ。

stretch goal  

 

3種類の中で、これが一番ネイティブ特有の言い回しだと思われる。

意味は最大限努力しても達成できるかどうか分からない高い目標のことだ。stretchには限界まで伸ばし切るの意味がある。

ひとことで訳せる言葉が見つからないが「チャレンジ目標」と訳されている場合もある。これはそもそもchallenge goalが別であることを考えると適当ではない。

 

A:  He's going to get a perfect score in the next exam.

B:  I'm sure it's a stretch goal.....

A:  彼は次のテストで満点を取ろうとしている。

B:  断言するよ、それは彼がベストを尽くしても出来るかどうかという難しい目標だよ。

 

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応用編

 

これらの表現は応用が効く。

 

A:  I'm going to read these all novels till the end of this month.

B:  Wow, so it's a callenge reading, isn't it? 

A:  この本を全部、今月中に読もうと思うんだ。

B:  ええっ、そりゃ結構な挑戦だね?

 

A:  She gave me the best answer that I really wanted.

B:  Yeah, that's a stretch answer.

A:  彼女は最も望んでいた答えをくれたよ!

B:  うん、考えられる限り最高の答えだね。

 

では、また次回をお楽しみに。

 

  

 

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ジョン・レノン没後40年の命日に寄せて|手向けの歌

 

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オリジナル短編小説

 手向けの歌

 

アニーのフォトセッション

 

「ジョン・・・今日のあなたはまるでハンブルク時代に戻ったようね!」

ファインダーから覗き見たジョンの凛々しい姿に、アニー・リーボヴィッツは一旦顔を上げ、ため息を漏らしながらそう言った。

 

「そうかい、アニー」

ジョンは嬉しそうに、彼女に言葉を返した。隣に寄り添って佇むヨーコも、頷きながら柔和な笑みでアニーを見る。

 

アニーはローリング・ストーンズのツアーを活写し、一躍有名になったローリング・ストーン誌のチーフ・カメラマンだ。

 

彼女の言う通り、その日のジョンは少し短くした髪をグリースでリーゼントっぽく撫で付け、撮影前に眼鏡も外していたので大いに若々しかった。

 

アニーは今日、アシスタントたちを連れてジョン・レノン夫妻の写真を撮りに、彼らが住むニューヨークのアパートメント、高級集合住宅であるダコタ・ハウスを訪れたのだった。

 

午前中に始まったフォトセッションは、アニーが充分なカット数を撮り終えて滞りなく終わった。彼女はジョン・レノン夫妻にお礼を言い、和やかに握手を交わし合ってダコタ・ハウスを後にした。

 

フリーウェイを快適にクルーズするステーションワゴンの心地よい振動に身を任せながら、今日眼にした優しさと色気が並存したジョンの姿を思い返すと、良い写真が撮れたという満足感がアニーを包んだ。

 

その数時間後に起こる凄惨な悲劇を、この時一体誰が予想し得たであろうか。

 

 

ウォーキング・オン・シン・アイス

 

アニーとのフォト・セッションを終えてから、ジョンとヨーコはゆったりと食事をし、しばらく寛いだ。

 

午後5時になると二人はレコーディング・スタジオ「ザ・ヒット・ファクトリー」にリムジンで向かった。ヨーコの新曲である「ウォーキング・オン・シン・アイス」のミックスダウン作業のためだ。

 

ウォーキング・オン・シン・アイス・・・薄氷の上を歩く、まさにそのタイトルのように、終焉へと一歩ずつ近づいてゆきながら時が過ぎていった。

 

ミックスダウンの作業の最中、あらかじめアポイントを取っていたラジオの記者がスタジオにやってきた。

番組用のインタビューのためである。

 

記者はジョンの新作や近況だけでなく、ビートルズの前身であるクオリーメンのことなども聞いた。ポールやジョージとの出会いについて、ジョンは丁寧に語った。

 

一通りの質問に答えた頃、ジョンは真顔で問わず語りに忽然と言った。

 

「私はヨーコよりも・・・先に死にたいと思っているんだよ・・・」

 

つまりヨーコの死は、ジョンにとって耐えられないことなのだろう。

ヨーコよりも先に死にたいというその願いが、ほどなく思い掛けない形で叶えられることになるとは、彼自身夢にも思わなかっただろう。

 

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I'm shot!

 

スタジオ作業を終えたジョンとヨーコは再びリムジンに乗り込み、ダコタ・ハウスへの帰路に就いた。二人を乗せたリムジンは午後10時50分頃、ダコタ・ハウスの自宅の前に到着した。

 

二人が車から降りた直後のことだ。

誰もいないと思っていた暗がりに男がひとりいて、ジョンに声を掛けてきた。

 

「ミスター・ジョン・レノン?」

 

ジョンは意表を突かれて動きを止めた。

 

その刹那、銃声が上がった。

1発、2発、3発・・・合計5発の弾丸がその男の拳銃から放たれた。

 

「I'm shot!」

 

ジョンは叫んだ。

ヨーコはあまりの事態に声も出ない。

 

「I'm, I'm shot......」

 

二回目の叫びを上げながら 、ジョンはアパートのエントランスに自力で進もうとしたが、崩折れた。

それを見てヨーコは両手で顔を覆い、喉も裂けよとばかりに絶叫した。

 

ほどなく、銃声を聞きつけたダコタ・ハウスの警備員が駆けつけた。

血まみれのジョン・レノンを見て仰天し、傍に立つ蒼ざめた顔のヨーコの方を見た。

 

「男が・・・あの男が暗がりから突然ジョンを拳銃で・・・」

 

ヨーコは動転しながらも男を指差した。警備員は驚きヨーコが指差した方を振り向くと、小太りの男が無表情で立っていた。だらんとした右手には拳銃、なぜか左手にはLPレコードが握られていた。

警備員は拳銃めがけて蹴りつけた。そのキックによって拳銃が弾き飛ばされても小太りの男は無表情だった。

 

警備員は拳銃を確保し、急いで電話に向かい警察に通報した。

 

数分後、セントラル・パークの警察署からパトロールカーで急行した警官隊が到着した時、ジョンの意識はまだかすかにあった。

 

警官たちはジョンの姿をひと目見て、一刻を争う極めて危険な状態であると判断し、警官二人がかりでジョンをパトロールカーの後部に乗せて、近くにあるルーズヴェルト病院に急いだ。

 

一方、警備員の案内で銃撃現場の方に行った警官数名は不審な小太りの男が立って本を読んでいるのを見た。

警備員はその男を指差し、警官たちに言った。

「あいつが射撃犯です!」

 

警官のひとりが男に声を掛けた。

「おまえ・・・何をしているんだ?」

感情のない声は返ってきた。

「本を読んでいたんです、『ライ麦畑でつかまえて』を」

彼の足元にはジョン・レノンのアルバム『ダブル・ファンタジー』が落ちていた。

 

警官は思い問い詰めた。

「おまえが撃ったのだな?」

無表情な顔を警官に向けて彼は淡々と言った。

「ええ、僕がジョン・レノンを撃ちました」

 

平然と言う男に呆気に取られつつも、警官は言った。

「お、おまえは・・・自分が何をしでかしたか分かっているのか?」

「すまない。君たちの友人だったとは知らなかったんだ」

 

意味不明の発言をする男を、警官は緊急逮捕した。

 

 

オール・マイ・ラヴィング

 

ルーズヴェルト病院に向かう車中で、警官はジョンの意識を保たせようと懸命に呼びかけた。

 

「ミスター・ジョン・レノン・・・今病院に向かっています。気を確かに・・・」

 

声にならない掠れた声でジョンは言った。

 

「私は・・・ジョン・・・ジョン・・・レノンだ・・・背中が・・・背中が・・・痛いんだ・・・背中が・・・痛い・・・」

 

その声は次第に弱くなっていった。

 

病院に到着すると、医師はジョンに懸命に心臓マッサージをし、同時進行で助手たちが輸血を施した。

 

彼らの必死の努力も虚しく、暴漢に発射された5発のうち4発の弾丸を体に受けたジョン・レノンは全身の80%の血液を失った結果として、午後11時を過ぎた頃に失血性ショックで四十年の人生に終止符を打ったことが確認された。

 

死亡確認をおこなった医師が、周囲を振り返ってジョンの逝去を告げると、水を打ったように静寂が広がり、それまでは喧騒で聞こえてこなかった病院のスピーカーから流れるバック・グラウンド・ミュージックが聴こえてきた。

 

「Close your eyes and I'll kiss you... Tomorrow I'll miss you......」

 

しわぶきひとつ無い空間に、ビートルズの「オール・マイ・ラヴィング」が・・・あたかもジョンの死を悼み、手向けられたかのように厳かに流れていた。

 

 

 

The End

 

 

 

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全米チャート上位5曲を独占!?初期ビートルズ空前絶後の大快挙の顛末【全曲公式動画URL付】

 

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 Contents

 

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前代未聞の多忙さだった1964年

 

1964年はビートルズにとって、最も忙しい一年だった。1月のパリ遠征、2月と8月の2回のアメリカ遠征の合間を縫って映画撮影やレコーディング、デンマークやオランダから、香港・豪州・ニュージーランドの英連邦各国におけるコンサートも敢行した。

 

また7月には主演映画『A Hard Day's Night』がイギリスから公開が始まり、その後日本では『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』とのタイトルで公開された。8月の2回目の渡米はアメリカ遠征とカナダを含めたいわゆる北米ツアーとなる。

 

秋には本国イギリス内での演奏活動、年末にクリスマス・ショーで超多忙な中、一年の幕を閉じたのである。そんな超多忙な一年のなかで、全米チャートを1位から5位まで同時に独占するという、彼らが打ち立てた素晴らしい記録について、本稿では語りたい。

 

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草の根からメジャーに

 

1963年も押し迫った12月26日、ローカルラジオで掛かる英国盤の異常な人気にブレイクの兆しを感じたアメリカのキャピタル・レコードが、翌年に予定していた発売日から繰り上げてビートルズのシングル盤「I Want To Hold Your Hand」をリリースした。

 

年が明けて1964年の1月18日に全米ヒットチャートのトップに躍り出るや、2月の2週間余りのアメリカ遠征の折には、コンサートの合間を縫ってアメリカで最も有名なバラエティTV番組「エド・サリヴァン・ショー」に出演した。

 

この前の年の本国イギリスにおける、英国王室も演芸会を主催するほどの由緒正しく権威のあるロンドン・パラディアム・シアターへの出演、並びにテレビ中継による反響も相当大きかった。

 

 

しかしながら、エド・サリヴァン・ショーに出ることの伝播力はさらにその十倍以上はあったと思われる。

 

実は、このエド、サリヴァン・ショー出演にはサイドストーリーがあった。

 

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ヒースロー空港での遭遇

 

エド・サリヴァンが前年の10月にイギリスのヒースロー空港で、スウェーデン遠征から帰国したビートルズとそれを迎える熱狂的なファンの姿を、偶然目の当たりにしたのだった。

 

デビュー直後のエルヴィス・プレスリーのスター性を見抜いて早々とテレビの「ブラウン管」に登場させ、大ブレイクのトリガーを弾いた海千山千のエド・サリヴァンのことだから、閃くものが当然あったのだろう。

 

いや、そもそもエドならずとも、全く予備知識なしであっても当時のファンの熱烈な歓迎を見るに及んだ者なら誰しも、その四人の若者たちに何かとてつもない大きな力を感じたのかも知れない。

 

ともあれ、ヒースロー空港の一件があっての、エド・サリヴァン・ショーへの招待となったのである。こういうことをひとつとっても、ビートルズは確かに「持って」いたのだとの感銘を禁じ得ない。

 

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視聴率70%超を記録したTV初出演 

 

エド・サリバン・ショーに颯爽と登場したビートルズであるが、初登場の2月9日は凄まじく、70%を超える前代未聞の視聴率を獲得し、業界の伝説・・・今で言えば真の「神回」となった。

 

その桁外れのビートルズの影響力を示すエピソードのひとつに、当時のアメリカで一番著名なキリスト教福音伝道師ビリー・グラハムにまつわるものがある。

 

厳格なグラハム師は戒律もストイックに遵守する信徒の鑑たる存在ではあるが、ビートルズがエド・サリバン・ショーに出演する日ばかりは戒律を破り、テレビを喰い入るように観たと伝わっている。

 

これが事実かどうかにこだわるよりも、そういう話が違和感無く、またグラハム師の名誉を損なうことなく語り継がれるぐらいに、彼らリバプール出身の四人の若きミュージシャンたちがアメリカ社会に与えたインパクトは巨大であったと考えるべきだろう。

 

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3週連続でのサリヴァン・ショー出演

 
2月9日に演奏した曲は、演奏順に「オール・マイ・ラヴィング」「ティル・ゼア・ウォズ・ユー」「シー・ラヴズ・ユー」「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」「抱きしめたい」で、「ティル・ゼア・ウォズ・ユー」以外は全部オリジナルである。

 

初回の出演時の反響が大き過ぎて翌週の16日も翌々週の23日も、連続で招待されるという、普通では考えられない事態となった。

 

 

 

アメリカで1963年終盤に、ローカルラジオから草の根レベルで火がついたビートルズ人気だったが、1964年の春から夏にかけては、もはや消防車が何台駆けつけようが消すに消せない大火事となってアメリカ全体を焼き尽くした。

 

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上位5枠をビートルズが独り占め

 

1964年4月4日付けのビルボード誌ホット100において、ついにアメリカ国民は1位から5位までをビートルズ・ナンバーが独占すると言う、まさに空前絶後の大快挙を目の当たりにした。

 

その5曲の顔ぶれとは・・・

  1. Can't Buy Me Love 

    https://youtu.be/TBSpmoA8V78

  2. Twist And Shout 

    https://youtu.be/2RicaUqd9Hg

  3. She Loves You 

    https://youtu.be/nGbWU8S3vzs

  4. I Want To Hold Your Hand 

    https://youtu.be/XT4pwRi2JmY

  5. Please Please Me 

    https://youtu.be/czw8eqepir8

 

面白いのは1位の「Can't Buy Me Love」と4位の「I Want To Hold Your Hand」の2曲はキャピタル・レコードからのリリースであるが、2位「Twist And Shout」はTOLLIE、3位「She Loves You」はSWAN、5位「Please Please Me」はVJからであった。

 

このように複数のレーベルからレコードがリリースされる複雑な権利関係は、ビートルズがブレイクしていた本国イギリスとブレイク前のアメリカの業界の温度差ゆえの、EMIのなりふり構わないアメリカ攻勢が生んだ結果だ。

 

この辺りの事情は以前に、下記のコラムでも書いているので参考まで。

 

しかし各レコード会社が好き勝手なフォーマット、つまり本国では無かったシングル盤やカップリング内容、あるいは好きに組み合わせたオムニバス盤などで乱立していたからこそ、人気に火が点いた時の火勢の凄まじさを倍増させた。

そういう事情も手伝っての、トップ5枠の独占という快挙になったとも言えるだろう。

 

ある意味ごちゃごちゃの権利関係による「怪我の功名」であり、ここでも「持って」いる力が後押しをしていたのだろう。

 

いずれにせよ、彼らの音楽の革新性と溢れんばかりの音楽への情熱が、世界を動かしてゆき、やがて音楽に止まらずカルチャー全体に途方も無い影響を与え始めることになる。

 

このブログでは、次回以降は1964年の名作アルバム『ハード・デイズ・ナイト』の制作秘話の数々を紐解いていくことになるだろう。

 

 

※ アルバム『ハード・デイズ・ナイト』フルプレイリスト  

※ 筆者のビートルズKindle本

 

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ビートルズの世界進出への大いなる助走こそ2ndアルバム・ウィズ・ザ・ビートルズ

 

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ビートルズ2ndアルバム『WIth The Beatles』

 

筆者の13冊目のKindle書籍、ビートルズのセカンド・アルバム『WIth The Beatles』制作にまつわるエピソード集を発刊したので、紹介させて頂くことにする。

 

Read The Beatles Episodes on With The Beatles: ビートルズ2ndアルバム 『ウィズ・ザ・ビートルズ』制作秘話集 【楽曲公式動画URL掲載】

 

1963年11月22日は、世界で三つの重大な出来事があった。まず、イギリスでビートルズのセカンド・アルバム『ウィズ・ザ・ビートルズ』がリリースされた1963年11月22日である。

ファースト・アルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』が成功した要因のひとつ「ライブ感」を引き続き保ちつつも、さらなるクオリティの向上が見られるアルバムだ。

 

このセカンド・アルバムは12月7日に、30週連続トップを維持した自分たちの『プリーズ・プリーズ・ミー』を押しのけて全英ヒットチャート1位を獲得し、翌1964年5月まで21週間連続で1位の座を守り、ビートルズの世界進出への大いなる助走となった。

 

同じ日にアメリカと日本では、日米間での通信衛星を使った衛星中継によるテレビ電送実験がおこなわれ、民間にも放送された。当時は「衛星中継」ではなく、「宇宙中継」と呼ばれていた。

 

実験放送が成功したのちには、ケネディ大統領からの祝福のメッセージが届く・・・はずであった。ところが、リアルタイムでアメリカから海を越えて伝えられたのは驚くべき事件であった。

 

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リリースは1963年11月22日

 

1963年11月22日、遊説中の第35代アメリカ合衆国大統領であるジョン・F・ケネディがテキサス州ダラスをパレード中、現地時間12時30分に銃撃され死亡したという知らせが、衛星放送で伝えられた最初の一報だったのだ。

将来を期待された若き大統領ケネディ暗殺のニュースは、驚きと深い悲しみとともに全世界を駆け巡った。

 

ちなみに、犯人と思しき人物リー・ハーヴェイ・オズワルドは、事件から1時間後に逮捕された。しかし2日後にダラス警察署の地下室で、何とTV中継中にナイトクラブのオーナー、ジャック・ルビーなる者に銃撃され死亡した。


そして多くの謎を孕んだまま捜査に終止符が打たれた。半世紀を経てもなお不可解さが残り、陰謀説を含めて未だなお様々な憶測が飛び交う事件である。

 

日本には奇しくもテレビ伝送実験において事件の詳細が伝えられ、日本の視聴者に大きな衝撃を与えた。訃報を伝える毎日放送北米支局の前田治郎記者から発せられた内容は、以下の通りである。

 

日米宇宙中継という輝かしい試みの電波に乗せて、悲しいニュースをお伝えしなければならない事を残念に思います。アメリカ合衆国第35代ジョン・F・ケネディ大統領は11月22日、日本時間11月23日午前4時、テキサス州ダラス市において銃弾に撃たれ死亡しました。
引用元:.wikipedia ケネディ大統領暗殺事件 

 

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ベビーブーマー

 

ケネディ大統領には政敵も多くいたし、スキャンダルもなくはなかったが(マリリン・モンローとのロマンス等)が、それでも人望は厚く、多くのアメリカ国民老若男女に慕われていた。

 

とりわけベビーブーマー(日本の団塊の世代=「戦争を知らない子供たち」に通じる第二次世界大戦終結後に生まれた世代)の若者の多くも、ケネディ大統領がアメリカの自由と平和と発展を導いてくれると願っていたのだ。
それまでにないほど、国民の期待を一身に集めた若き大統領だった。

 

それゆえ、この事件が国民に与えた衝撃は計り知れないものであった。若者達が未来の希望を失ってしまう、ケネディロスの状態に陥るのも無理はなかったのだ。
ケネディ大統領の人気は高く、日本のベビーブーマーとも言える「団塊の世代」の若者たちの共感も得ていた。

 

そのケネディ大統領暗殺の年、1963年の12月26日にはアメリカにてビートルズのシングル盤「I Want To Hold Your Hand(抱きしめたい)」がキャピトル・レコードから、予定していた発売日から繰り上げてリリースされた。

 

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予定を繰り上げてリリース

 

なぜ予定を繰り上げたのか?


実は一部のローカルラジオ局がビートルズのイギリスでの評判から当然興味を持ち、イギリス盤をラジオで流したところ大いに反響があったのである。評判がエスカレートして無視できなくなり、キャピタル・レコードは慌ただしく予定を繰り上げたのだ。

 

1963年も暮れようとする頃、アメリカではケネディ大統領の死によって希望を失った自由と平和を求める若者たちの心は打ちひしがれていた。

そこへ彼らの心の隙間を埋めて、自由と平和と愛のパワーで満たしてくれるビートルズという新しいヒーローが現れたのだ。乾いた土に水が染み込むように、ビートルズ・サウンドは彼らの心を潤し、腰を上げさせ、舞を舞わせた。

 

発売後のビートルズ人気は燎原の火のように広がり、広大なアメリカのあちらこちらでブレイクしてゆき、翌1964年の1月18にとうとう全米チャートのトップに輝いた。

尋常ではないビートルズ熱はメディアをも驚かせた。そしてついにアメリカで最も有名なTVバラエティ番組「エド・サリヴァン・ショー」に招待されたのだ。

 

放送日は2月9日、演奏した曲演奏をした順に並べると、「オール・マイ・ラヴィング」「ティル・ゼア・ウォズ・ユー」「シー・ラヴズ・ユー」「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」「アイ・ウォナ・ビー・ユア・マン」であり、2曲目以外は全部オリジナルである。

 

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エド・サリヴァン・ショー

 

番組では溌剌とした自由奔放な4人の若者が、最高に素敵な音楽を自作自演した。これを見た多くの若者が音楽に目覚めたり、音楽ならずとも、何かを始めたくなった。

 

イギリスとドイツなどの欧州の一部でしか売れていなかったビートルズは、アメリカの若者の心に新しい息吹を吹き込み、圧倒的にその名を轟かせたことにより、一気に世界スケールのスーパーアーティストへの道を歩み始めた。


ほんの一例ではあるが、あのビリー・ジョエルはこの日のエド・サリヴァン・ショーを観て人生がきまったと公言して憚らない。

 

※放送日は2月9日、演奏した曲は、「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」「オール・マイ・ラヴィング」「シー・ラヴズ・ユー」「抱きしめたい」「ティル・ゼア・ウォズ・ユー」で、「ティル・ゼア・ウォズ・ユー」以外は全部オリジナルである。大反響のためその後も16日、23日と3週連続で招待されることとなった。  

 

かくしてセカンド・アルバム『ウィズ・ザ・ビートルズ』がリリースされ、日米間の宇宙中継の実験放送があり、その第一報として伝えられた「ケネディ大統領暗殺」、この三つの出来事があった日・・・

1963年11月22日をひとつの節目として世界から揺さぶりをかけられた若者たちの心が、ビートルズが放つ「愛と自由と平和の讃歌」を胸いっぱいに吸い込み始めたのである。

 

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Read The Beatles Episodes on With The Beatles
ビートルズ2ndアルバム『ウィズ・ザ・ビートルズ』制作秘話集【楽曲公式動画URL掲載】

 

目次

 

プロローグ

 その日、三つの重大な出来事があった
 大統領の訃報に全世界が震撼
 ベビーブーマーのケネディロス
 人気TV番組に出演で世界が視野に

IT WON’T BE LONG

 劈頭から勢いある肉声で始まるアルバム1曲目
 ジョンに対抗したポールの言葉遊び
  ライブでは一度も演奏しなかった理由?

ALL MY LOVING

 大人気のモンスター・チューン
 ジョンがポールを絶賛した曲
 ブルース色の薄い爽快系の曲
 楽器演奏力も秀逸だったビートルズ
 彼らはビジュアルもよく考えていた

DON’T BOTHER ME

 ノーザン・ソングス
 ディック・ジェイムスの進言
 オリジナル曲と著作権
 ジョージ初めてのオリジナル曲
 「放っておいてくれ」
 偉大過ぎた2人の陰で

I WANNA BE YOUR MAN

 ストーンズはデビュー盤に不満だった
 ミック・ジャガーの奨学金で家賃を
 ポールがリンゴの歌いやすい曲を
 ミック・ジャガーの幸運
 車中での運命のやりとり
 ストーンズのブレイクの足掛かり

ROLL OVER BEETHOVEN

 ロカビリー音楽
 日劇ウエスタン・カーニバル
 チャック・ベリー
 ベートーヴェンをぶっ飛ばせって?
 凄まじき逆輸入

WHILE MY GUITAR GENTRY WEEPS 付録1

 クラプトン参加の謎
 ジョージと友
 易経
 エゴイズム
 ジョージの閃き
 エリック・クラプトン一世一代の名演奏
 クラプトンの望んだこと
 スローハンドの面目躍如
 相互反応
 ルーシー

COME TOGETHER 付録2

 乾いた秀逸なロックナンバー
 サイケデリックの伝道師からの依頼
 ジョン・レノンのロックンロールへの覚醒
 異色な歌詞を綴るチャックに着目したジョン
 「カム・トゥゲザー」は当初アップテンポのロックンロールだった
 チャックへのオマージュ感が災いを呼ぶ
 後のジョンらによる逆提訴で完全に終決
 2CDエディションで聴ける別バージョン

PLEASE PLEASE ME 付録3

 アルバム劈頭から斬新なロックンロール
 テイク1の演奏の頭にテイク9のカウントの掛け声
 従来のロックンロールと一線を画すコード進行
 高度な和声進行を感覚でやってのけたポール

ストーンズ&マディ 忘れ得ぬ夜 付録4

 マディー・ウォーターズ
 黒人音楽への憧憬
 心の師との対面
 一期一会の共演

 

 ※アルバム『With The Beatles』フル・プレイリスト 

 

 

 

筆者のビートルズKindle本

 

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今スグ使える生きた英語 第12回ネイティブが使う褒め方と褒められた時の応じ方

 

このシリーズは学校の授業では習えない、今を生きる英語ネイティブ達が日常で普通に使う言い回しを筆者自身の経験を通して選び、紹介するものである。ネイティブとの会話や、英語圏のメディアでしばしば出くわす表現など、覚えると使い道が多い便利な言い回しを知っておこう。

 

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褒め方のパターン

 

比較的若い世代のネイティブがよく使う褒め方を紹介する。実際に筆者のネイティブ友人たちがしょっ中使っていた生きた英語である。 

 

You're awesome!   

そのまま「君は素晴らしい!」と言う感じで使われる褒め言葉の代表的なものだ。 

awesome は「素晴らしい」の意味を持つ形容詞だ。感謝の表現としてよく使われる。

 

awfulは要注意

awesomeと似た言葉で意味がまったく違うのものがある。

awfulだ。日本人には要注意だ。

 

「ひどい」とか「不快」「目も当てられない」のようなニュアンスだ。

絶対に You're awful! などと言ってはいけない。

 

※ウィル・スミスのキラーコラムに次いでアクセスが多い人気コラム!

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You're the best!  

褒め言葉としてよく使われる言い方で「あなたって最高!」というニュアンスだ。

 

それを感謝の表現に使う場合もある。日本語であってもお礼を言う場面で「ありがとう」ではなく「あなたはサイコー!」「君って最高だね!」と表現するのと同じだ。

 

You rock!

スラング寄りの最高の褒め言葉で、若い世代にもっともしっくりいく言い方だ。日本語で言う良い意味での「まじヤバい」に近い。

 

誰かを称賛する場合に

They rock! 「あいつらヤバい!」

He rocks!  「彼サイコー!」

などと使われる。

 

 rock の持つ「揺り動かす」の意味から生じたスラングであろう。

これを感謝の場面で使えば、凄まじく感謝している気持ちが伝わる。

 

rock の意味の真逆で使う言葉は suck である。

suchは本来は「すする」「しゃぶる」の意味だが貶(けな)す時に使われる。全然ダメだと言うニュアンスである。

 

You suck!

He sucks!  

It sucks...

など。

なお、この suck をさらに強めると blow になる。

He blows! 

は最高の貶し言葉となる。

 

※ブックマーク900超え!「はてブ週間ランキングTOP」に輝いたキラーコラム

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褒められた時に返す言葉


褒められた時にどう返すかは案外重要である。

 

一部の学習書では「褒められた時に日本人は謙遜してやんわり否定してからお礼を言うが、英語ネイティブはストレートに認めてお礼を言う。Yes, Thank you. のように返す」とあるが、これは筆者のネイティブ交流経験からすれば大間違いである。

 

実際にこんな対応をすると、図々しい奴と思われるだろう。

彼らは褒められたら、日本人と同じく謙遜して一旦やんわり否定する。その上でお礼を言う。

Not really... But thanks

のような言い方が模範的だ。これはネイティブ太鼓判のフレーズと考えてよい。

 

※感無量のMASA RADIO100回記念、ジーナさんと!

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 Not really… But thanks

 

Not really が日本語の「そんなことはないよ」「それほどでもないです」と同じでやんわりと否定する言い方だ。そしてButを挟んでThanksあるいはThank youでお礼を言う。

 

これ、まったく日本人と同じである。
「いやいやとんでもありませんよ。でも、ありがとうございます」的な返し方である。

頭にWowやOh my goodnessなどをつけてもよいだろう。

 

ちなみにシラブルのつなぎめの、このnotのT音は前半だけで後半はR音に変わるので、聞こえないTになるが、実はRに向かう時に上顎に着けられた舌が離れる瞬間、ほんのかすかにT音が鳴る。

 

でもそれは意識しなくてもよいことで、英語喉メソッドを理解し、発音を喉でやればオートマティックに起こることである。

 

 

では、また次回をお楽しみに。

 

 

筆者の英語関係Kindle本

  

ビートルズによって日本で無名だったチャックベリーはロックンロールの神様に昇格!

 

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https://abbeyroad0310.hatenadiary.jp/entry/2017/06/23/220000


 

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※アルバム『With The Beatles』フル・プレイリスト 

ロカビリー音楽

 

1950年代の末期、ビートルズの本拠地はリバプールであった。港町ゆえにアメリカから来た船乗りたちが持ってくる音楽がもっとも目新しく、彼らを夢中にさせていた。

 

エリヴィス・プレスリーやバディ・ホリー、リトル・リチャードやチャック・ベリーが若きビートルズのお気に入りであった。

 

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彼らの音楽は「ロカビリー」や「ロックンロール」と呼ばれた。ロカビリーとはブルースにカントリー&ウェスタンの中でも泥臭い「ヒルビリー」が合わさって生まれた音楽である。後にロックンロールという名称が一般的になる。

 

日劇ウェスタン・カーニバル

 

同じ頃の日本では、「ロカビリー」という名の下、エルヴィス・プレスリーやエディ・コクランなどの白人シンガーをお手本としたドメスティックのロカビリー歌手平尾昌晃、ミッキー・カーチス、山下敬二郎たちが日劇「ウェスタン・カーニバル」で黄色い喝采を浴びていた。

 

「ウェスタン・カーニバル」について少し触れておこう。

日劇のオーナーである「東宝」が1958年2月8日に第1回を開催した音楽フェスティバルである。その名の通り当初はカントリー&ウェスタン音楽が中心となっていた。

 

この企画はヒットし、定期的に開催されるようになって、1950年代にはウェスタンから派生したロカビリー・ブームを生み出した。そして1960年代後半にはGS、すなわちグループ・サウンズ・ブームにつながってゆく。

 

さて、ビートルズのブレイク前は、エリヴィス・プレスリーの人気は英語圏だけでなく日本でも絶大で、多くのカントリー&ウェスタンの歌手がエルヴィスに憧れてロカビリーに寄って行った。

 

だから日本においては圧倒的に白人シンガーがメインで、黒人シンガーのリトル・リチャードなどはむしろ例外であり、チャック・ベリーを知る者はごくごく少なかったであろう。

 

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チャック・ベリー

 

一方、エルヴィスも大いに尊敬しつつ、黒人シンガーの素晴らしさに若い頃から着目していたビートルズの、とりわけジョン・レノンがチャック・ベリーを贔屓にしていたことは有名だ。

 

なにせ、彼をロックンロールの別名だとまで言い、またロック史上最初の詩人だとも言っている。

 

チャックの代表曲のひとつ「ロール・オーバー・ベートーヴェン」はシングル盤として1956年にリリースされた曲だが、チャック好きのビートルズはセカンド・アルバム『ウィズ・ザ・ビートルズ』のB面トップにこの曲を入れた。

 

ビートルズのライブ・レパートリーでもあり、レコードであっても伝わるノリノリの演奏にファンは圧倒された。ライブ映像を観てもカヴァーというより、完全に持ちネタになっているのが分かる。

  

  

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ベートーヴェンをぶっ飛ばせって?

 

ビートルズ人気が高まりゆく初期段階での日本では、オリジナルかカヴァー曲ということには無頓着であり、1964年の半ばでは「ツイスト&シャウト」や「プリーズ・ミスター・ポストマン」などのノリの良いカヴァー曲が日本のヒットチャートを賑わしていた。

 

そして「ツイスト&シャウト」のB面が「ロール・オーバー・ベートーヴェン」という両面ともカヴァー曲のシングル盤が1964年の初夏にリリースされたが、そのセレクトは日本独自のカップリングだった。

 

当時の日本の音楽ファンは、普通はシングルのB面はクオリティが落ちるものなのに、ビートルズは違うという認識が支配的だった。

 

そして「ロール・オーバー・ベートーヴェン」が取り上げられたおかげでチャック・ベリー人気にも火がつき、その名は一躍日本でも急激に有名になった。

 

この曲の当時の邦題はふるっていた。なんと「ベートーベンをぶっ飛ばせ」という勢いのあるタイトルだ。それはそれでアリだと思うが、意味的には少し違う。

 

roll over A (人)はAさんの体を転がす、あるいはAさんに寝返りを打たせる、である。冒頭のレコード・ジャケットの意匠を見れば転がされてビートルズの方を向いたベートーヴェンの風情だ。

 

私見だがおそらくは・・・眠っている(あの世にいる)ベートーヴェンさんにこちらを向かせて、最近流行りの素敵なロックンロール音楽を聴かせてあげようぜ、的な意味を持っているのではないかと思う。

 

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凄まじき逆輸入

 

ビートルズが取り上げて以来、日本では元々チャック・ベリーという黒人ロック・シンガーのことなどついこの間まで多くの人達が知らなかったはずなのに、まるで記憶を塗り変えられるように超一流ロックンローラーとなった。

 

その後もビートルズは数々のチャック・ベリーの曲をカヴァーすることになり・・・やがてチャック・ベリーは日本では「ロックンロールの神様」に祭り上げられるに到るのである。

 

同様にビートルズがカヴァーしたロックンローラーのバディ・ホリーも日本で人気が出た。凄まじき逆輸入効果と言わざるを得ない。

 

「ロール・オーバー・ベートーヴェン」はデビュー前はジョンがリード・ボーカルを取っていた曲だが、デビュー後はジョージ・ハリスンの十八番になっている。

 

イントロや間奏ではライブで膨大な回数弾きこなしてきたジョージの、年季が入った「チャック・ベリー」テイストのギターを堪能できる。

 

 

 

筆者のビートルズKindle本

 

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ビートルズ名曲誕生秘話の集大成『Read The Beatles Special Edition』

 

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Read The Beatles Special Edition: All Contents of 1,2&3 

 

これまで筆者が書き溜めては順次発刊した、ビートルズ名曲誕生秘話集『Read The Bestles』シリーズの1〜3巻をひとつにまとめた集大成版Kindle本を上梓した。

 

 

永遠不滅の革命的音楽集団「ビートルズ」の名曲の誕生にまつわる興味深いエピソードや、あるいは謎のまま語り継がれていることが色々と存在する。

 

ビートルズの熱いファンの人々はもちろん、彼らのことをまだよく知らない音楽ファンや、これからビートルズに親しもうという人々のために、そんな秘話を書き始めて5ヶ月になる。


事実関係がはっきりしているものや、憶測が飛び交ってともすれば矛盾する説が並存する場合もあるが、筆者が可能な限り収集した情報に基づき、俯瞰して出来事を再編集した。

 

情報が欠ける部分や知りようもない会話部分などは想像を加え、事実に基づいたノンフィクションに限りなく近い読み物として読んで頂ければ有難い。

 

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想定外の反響

最初に『Read The Beatles』を上梓した時はシリーズ化する予定があったわけではない。


しかしながら思いの外好評で「続編をぜひ」という有難いお言葉をいくつも頂き、それではとばかりに『Abbey Road Edition』、さらに『Please Please Me Edition』とすでに上梓して、今後はさらにその次も予定している。

 

おそらくはこのシリーズ、少なくともビートルズのオリジナル・アルバムの枚数と同じ、あるいはそれ以上の数になるかも知れない。筆者自身、大いに楽しみながらの仕事なので、ぜひ続けていきたいと希望している。

 

ともあれ、シリーズ3作までいって、そこそこの量になっているので、当初は3巻まとめ買いをされた読者にお礼としてディスカウントをするような販売方式をとろうかと考えた。


しかし、あいにくAmazonの方でシステム的にそういう販売方法は対応していないということであり、ただし、別の書籍としてまとめたものを自由に価格設定はできるということであった。

 

よって此の度の、1巻中に3巻が入った変則3巻セットの企画と相成ったのである。

尚、各章の対象楽曲ごとに、完全に視聴できる公式動画のURLも併せて掲載しているので、ぜひとも原曲を聴いて楽しみつつ、読んで頂ければ幸いである。

 

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現時点のオール・イン・ワン

 

シリーズはまだ続くが、現時点までの1〜3巻分を一堂に会しただけでも、相当な分量になった。目次だけでも半端ないが、参考に紹介しておく。

 

目次

 

はじめに

 

1: READ THE BEATLES

 

ALL YOU NEED IS LOVE

 様々な証言が交錯する衛星同時中継
 エプスタインの誤算
 全世界同時中継
 エプスタインの涙

WHILE MY GUITAR GENTRY WEEPS

 クラプトン参加の謎
 ジョージと友
 易経
 エゴイズム
 ジョージの閃き
 エリック・クラプトン一世一代の名演奏
 クラプトンの望んだこと
 スローハンドの面目躍如
 相互反応
 ルーシー

NORWEGIAN WOOD (THIS BIRD HAS FLOWN)

 邦題は完全なる誤訳
 マニアに知られている「裏解釈」
 暖炉か、部屋か、煙草か?

BACK IN THE U.S.S.R.

 パロディの二乗?
 ビーチ・ボーイズ、マイク・ラブの助言
 リンゴ・スター脱退劇

THE BALLAD OF JOHN AND YOKO
 不協和音
 ジョンとヨーコの平和運動
 仕上げはポール宅にて
 ドタバタ劇の顛末

パリ1964年1月29日、ビートルズは世界の音楽史を上書きし始めた 番外編1

 EMIのアメリカ市場への焦り
 ローカルラジオがメジャーを動かした
 世界を的に、パリで始動
 ドイツ語バージョンの録音
 1964年の凄まじき展開

幻の映像が奇跡の復活 番外編2

 ビートルズは間違いなく「持って」いた
 失われた貴重なインタビュー映像
 後期の貴重なツーショットインタビュー
 解散が迫り来る時期のデリケートな関係の四人
 二人のビートルズは何を想い、何を語った?
 レノン/マッカートニーの自然体の語り口

2: READ THE BEATLES ABBEY ROAD EDITION

事実上のラスト・アルバム

 12枚めのオリジナル・アルバム
 ゲット・バック・セッション
 スタジオを改名させた成功
 元題『エヴェレスト』
 進行中だった「ビートルズ神話」

COME TOGETHER

 乾いた秀逸なロックナンバー
 サイケデリックの伝道師からの依頼
 ジョン・レノンのロックンロールへの覚醒
 異色な歌詞を綴るチャックに着目したジョン
 「カム・トゥゲザー」は当初アップテンポのロックンロールだった
 チャックへのオマージュ感が災いを呼ぶ
 後のジョンらによる逆提訴で完全に終決
 2CDエディションで聴ける別バージョン

SOMETHING

 ジョン&ポール顔負け、ジョージ会心の曲
 黒人音楽に憧憬を抱いていたジョージ
 クリシェの効果が絶大な構成
 ジョージの完璧なギターソロ
 オーケストラとともに一発録り
 CHARも見抜けなかったジョージの開花
 ポールに再三注意したジョージ
 
OH! DARLING

 極上のロッカ・バラード
 ビートルズと黒人音楽
 音楽の最高峰を目指したアルバム
 本当はジョン・レノンが歌いたかった
 四人のクオリティ高きパフォーマンス
 意味深で強烈なラブソング

HERE COMES THE SUN

 ジョージの憂鬱
 ハートウッド・エッジ
 フェラーリ365GTC
 ジョンの不在がもたらしたもの
 ジョージ牙を剥く

BECAUSE

 群を抜いて和声が美しい「ビコーズ」
 ヨーコが弾いていたピアノソナタ
 ジョンの世界観が凝縮された深淵な詞
 9和声を編曲した五人目のビートルズ
 完璧で荘厳美麗なハーモニー

GOLDEN SLUMBER

 2種類のメドレー
 「ゴールデン・スランバー」の元ネタ
 義妹ルースのピアノ
 ポールが詞に込めた意味

THE END

 貴重な二つのパフォーマンスを含む曲
 エンディング
 ジョンは初めてヨーコをスタジオに入れなかった
 一発でOKが出た最高のライブテイク

HER MAJESTY

 女王陛下の懐は深かった
 謎のエンディング
 ハプニングの二乗
 見習いエンジニア君の失敗
 第一のハプニング
 第二のハプニング
 天才の真骨頂

3: READ THE BEATLES PLEASE PLEASE ME EDITION

PLEASE PLEASE ME (ALBUM)

 1日で収録された奇跡の名盤
 デビュー2枚目シングルで全英トップ! 一躍脚光を浴びる
 1963年2月11日 12時間45分を掛けて収録
 既存の4曲に加えて10曲を録音
 アルバム最大の勝因はライブ再現を狙ったこと

I SAW HER STANDING THERE

 アルバム劈頭から斬新なロックンロール
 テイク1の演奏の頭にテイク9のカウントの掛け声
 従来のロックンロールと一線を画すコード進行
 高度な和声進行を感覚でやってのけたポール

BOYS

 バンド・ドラマーの宿命
 リンゴの味わいあるボーカル
 解散後のリンゴのヒット曲
 ビートルズ初期のリンゴのボーカル曲
 スピード感あるロックンロールにアレンジ

PLEASE PLEASE ME

 リバプールの悪ガキたちが大舞台に
 ジョージ・マーティンの助言抜きでは生まれなかった大ヒット曲
 このバラードのままでは売れない
 極めて音楽性が高いアレンジ
 若きポールから湧き出ずる理屈抜きの音楽センス

DO YOU WANT TO KNOW A SECRET

 夢見心地のラブソング
 ジョージが歌う、ジョンが作った曲
 ジョンの結婚と新居
 隠れ家の密会
 エプスタインの矜持
 映画にもなったジョンとエプスタインのスペイン旅行

TWIST AND SHOUT

 奇跡の一発録り
 形を変えゆく「ツイスト&シャウト」
 レコーディング最後の曲
 全身全霊を込めたジョンの鬼気迫るシャウト

ストーンズ&マディ 忘れ得ぬ夜 付録

 マディー・ウォーターズ
 黒人音楽への憧憬
 心の師との対面
 一期一会の共演

 

 

筆者のビートルズKindle本

 

 

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英語喉50のメソッド著者上川一秋氏のVOICY番組新作2題に出演!【エンタメ】

  

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VOICYに再出演

 

筆者の英語喉の師匠、上川一秋氏のVOICY番組「国際結婚と英語」に再び招待され、2番組を収録してすでにどちらも公開されたので紹介させて頂く。 

 

 まずはこちらが本日公開の分である。 

www.voicy.jp

 

 内容はいわば・・・「ネイティブのための英語による大阪弁講座」である。

筆者が先生、上川氏が生徒として英語で大阪弁のアクセント、イントネーションを教授している。

なぜ英語でかは、大阪弁を覚えたい英語ネイティブに向けてやってほしいという師匠のリクエストにお応えしたということだ。

 

当時は自分の修行という意味ともうひとつ、同じく英語喉を学ぶ人たちにぜひ、滅多に聞けないネイティブの普段通りの喋りを聴く機会のひとつになればと思ってやってきた。

 

おかげで多少なりともMASA RADIOに触発されて、スカイプで一般のネイティブと話す実践に向かった人が何人かいるということや、師匠の上川氏も同趣旨の活動を始められたことはとても光栄だと感じている。

 

振り返って改めて思ったことは、教材で聴く英語と全く違うナマの英語を聴くことの大切さと、それをシェアすることは無駄ではなかったということだ。

 

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とにかく喋って録音する学習法 

 

次に、順序は逆だが、昨日公開された分がこちら。 

www.voicy.jp

 

ここでは、このブログでも何度か書いている8年前の英語喉との出会いからMASA RADIOを始めるに至る流れを振り返っている。

 

※関連コラム

www.eigonodogutman.com

これも師匠から、ユニークで英語喉的にはひとつの有効な学習法であるから、ぜひシェアして欲しいとのことでお受けした。

 

前回の出演の件はこちらで紹介している。

www.eigonodogutman.com

 

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 MASA RADO同窓会

 

上川氏はVOICYで精力的に英語喉の啓蒙に努めているので、筆者も負けずに頑張らなくてはいけない。

今後、以前MASA RADIOを一緒にやったネイティブたちと、徐々にだが旧交を温めて、できればMASA RADIO同窓会バージョンなどを公開できればいいなと考えている。

 

現在すでに連絡が取り直せているのはエミリーで、今後連絡が取れそうな手掛かりがあるのがウィル、アンドレア、ジョーなどだ。

 

ともあれ、VOICY番組にぜひとも、ご意見ご感想を!

 

 

英語喉物語『喉の旅』シリーズと『生きた英語』第一弾!

売れてます!筆者のビートルズKindle本

パリ1964年1月29日、それはビートルズによる世界音楽史の上書きが始まった日

 

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EMIのアメリカ市場への焦り

 

ビートルズを抱えるイギリスのレコード会社EMIは、「プリーズ・プリーズ・ミー」が英国で人気に火がついた頃から、アメリカのマーケットへの売り込みを始めていた。しかしながらメジャーなレコード会社からは、ほとんど相手にされなかったのだ。

 

そんな中で興味を示したのが、シカゴのマイナーなレコード会社「VJ」であった。

「プリーズ・プリーズ・ミー」と「フロム・ミー・トゥ・ユー」のシングル2枚をアメリカで発売し、アルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』の発売する権利も手に入れた。

 

しかし、VJは折からの経営不振で会社自体が立ち行かなくなり、アルバムは発売延期となった。

 

EMIとしてはVJとのビジネスが不発に終わったので、次作の「シー・ラブズ・ユー」をフィラデルフィアのマイナー・レーベル「スワン」からリリースした。しかしこれら3枚のシングルは、アメリカでは全く振るわなかったのだ。

 

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ローカルラジオがメジャーを動かした

 

EMIの懸命な売り込み攻勢の結果、メジャーのキャピタル・レコードから辛うじてシングル「抱きしめたい(I Want To Hold Your Hand)」を翌年にリリースする話に漕ぎ着けていた。

 

そんな状況の中、イギリスでの人気を聞きつけていたアメリカの一部のローカルラジオ局が「抱きしめたい」のイギリス盤を掛けて、これが受けて同時多発的にリクエストが急増し、業界に噂が広がったのだ。

 

   

尋常ではない草の根の盛り上がりを察知したキャピタル・レコードが、翌年リリース予定にしていた「抱きしめたい」を、慌てて予定を繰り上げて年末にリリースした。

すると、既発のシングルもそれにつられてヒットチャートを駆け上がっていくというオマケがつくことになる。

 

そして年が明けた1月にビートルズ人気はもうローカルではなく、広大なアメリカのいたる所で盛り上がり、ついに全米ヒット・チャートで「 抱きしめたい」がトップに輝いた。

 

※アメリカ進出初期に関して、別の視点も加えて詳述しているので参考に

 

ビートルズがその知らせを受け取ったのは、パリであった。

 

ビルボード・ホット100のトップをビートルズが飾ったことを伝える2月1日付けの「ビルボード」誌を、彼らはパリ公演ツアー中に現地のホテルで手にしたのだ。そしてマネージャーのブライアン・エプスタインとともに祝賀の宴を設けた。

 

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世界を的に、パリで始動

 

その直前の1月29日、彼らはパリ公演の合間を縫うようにEMIのパリ・スタジオで、年が明けてから初めての録音をおこなった。

 

それは1963年にリリースされてイギリスで大ヒットを飛ばした「シー・ラブズ・ユー」と「抱きしめたい」のドイツ語バージョンを録音する作業であったのだ。

 

現在ではそのようなことは考えにくいが、当時の事情として外国のタレントを自国語で売り出すことは世界共通のデフォルトであったのだ。

アメリカなどの英語圏は問題ないが、当然ドイツのレコード業界からは、「自国語でないと売れないのでドイツ語バージョンを」との強いリクエストがあった。

 

それに応えるためにジョージ・マーティン率いるレコーディング・スタッフが、ビートルズを追いかけるようにパリまでやってきたのだ。

 

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ドイツ語バージョンの録音

 

当然ビートルズは気乗りがしなかったが、断るわけにもいかずに録音をした。

「抱きしめたい」は、既発盤で使ったベーシック・トラックを持ち込んで、ドイツ語のボーカルをミックスした。

ところが「シー・ラブズ・ユー」はベーシック・トラックがすでに処分されていたのだ。止むを得ず楽器演奏とドイツ語ボーカルを生録音して制作された。

 

このおかげでドイツ語版ではあるが「シー・ラブズ・ユー」のステレオ・バージョンが初めて生まれたのだ。

というのも、「シー・ラブズ・ユー」のオリジナル英語版に関しては、モノラルのシングル用マスター・テープしか残されていない。よってステレオでのリマスターは現在でも不可能であり、ステレオ・バージョンは世界中どこにも存在しないのだ。

 

※「She Loves You」ドイツ語バージョン

 

※「I Want To Hold Your Hand」のドイツ語バージョン

 

パリでドイツ語だけでなく英語バージョンも録音されていれば・・・と残念に思うファンの数は計り知れないが、後の祭りである。

 

その日、レコーディングはかなり順調に進んで時間が余った。そこで、次回シングル用の「キャント・バイ・ミー・ラブ」も録音もしておこうということになった。

取り掛かるや、わずか4テイクでベースとなる音源のほとんどが録音できた。

 

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1964年の凄まじき展開

 

結果的に1964年はビートルズにとって世界進出を本格化した、まさに世界の音楽史を上書きし始める年であった。

 

1月のフランス・パリに始まり、2月はアメリカ遠征、その中でアメリカで最も有名な人気TVバラエティ番組「エド・サリヴァン・ショー」への3回の出演で全米に圧倒的な存在感を示すことになる。 

 

 

そしてデンマークやオランダから、香港・オーストラリア・ニュージーランド等の英連邦各国におけるコンサートもこなした。

 

8月にはアメリカ・カナダのいわゆる北米ツアーを敢行した。

 

また7月には主演映画『A Hard Day's Night』がイギリスから公開が始まり、日本では『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』とのタイトルで公開された。

※2000年には邦題を『ハード・デイズ・ナイト』に改めてリバイバル上映された。本年(2019年)にも映画公開55周年を記念した「一夜限定」の上映会が10月28日に東京・大阪・札幌・福岡のライブハウスZepp各店でおこなわれ、反響を呼んだ。

 

秋には本拠地イギリスの国内ツアー、年末にはクリスマス・ショーで超がつく多忙な中、一年の幕を閉じたのであった。

 

ちなみにこの1964年にビートルズがイギリスで発表したレコードはアルバムが2枚、シングルが3枚、4曲入りEP盤1枚というまさに八面六臂の大活躍であった。

 

 

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【最新】アーリー・ビートルズ秘話一覧<時系列バージョン> 1962年11月〜1963年11月

 

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ビートルズ・ワールドに浸って

 

ビートルズに関するコラムを本ブログのカテゴリーのひとつとして書き始めて、そろそろ5ヶ月になろうとしている。合計32本のコラムを書いてきたが(そのうち4本は英語喉とも絡んでいるが)、これほど多くのビートルズコラムを書くとは思っていなかった。

 

しかしながら、筆者を音楽に目覚めさせてくれたビートルは元々マニアックに好きで、コアな情報も収集していた。だからビートルズに関して書くのは「ビートルズ・ワールド」に浸りながらの楽しい作業であり、それで喜ばれるのはある意味僥倖であった。

 

コラムの反響は良く、ある程度のまとまりで加筆修正してKindle本にしたものが既に2冊を数えており、こちらもおかげさまで好評を頂いている。

というわけで、読者の需要があるジャンルであるということは痛感している。

 

そして、未だ発信していないエピソードやあまり知られていない情報群はまだまだある。よって、筆者はこのカテゴリーを今後も書き続けてゆくことになるので、今後ともよろしくお願いしたい次第である。

 

さて、ここ最近連続で書いてきた初期のビートルズ秘話、いわゆる「アーリー・ビートルズ」の話もかなりの数になってきたので、一度時系列的にまとめてみようというのが本稿の主旨である。

 

書いている時にはさほど時系列を気にしないで書いてきたが、エピソード自体はその時点だけではなく、後の出来事に繋がっているものも多い。改めてそれらを並べ直してみると、また違った読み方ができることに気づいたのである。

 

何時を編纂の起点とするかの定義は、ある程度幅をもたせた。録音日であったり、リリース日であったりするが、それはその作品のエピソーソや影響を与えた出来事などによって、選ぶ基準を変えているのでご了承頂きたい。

 

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  〜1962〜

November

Featuring "Please Please Me"

 

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  〜1963〜

February

Featring "I Saw Her Standing There"

Featuring "Boys"

Featuring ”Do You Want To Know A Secret"

Featuring "Twist And Shout"

 

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April

Featuring The Album"Please Please Me"

July 

Featuring "It Won't Be Long"

Featuring "All My Loving"

 

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September 

Featuring "Don't Bother Me"

Featuring "I Wanna Be Your Man"

November 

Featuring The Album "With The Beatles"

 

 

 

THE BEATLES カテゴリーの記事一覧 

 

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ポールがリンゴのために書いたビートルズ曲はローリングストーンズの出世も後押しした

 

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ストーンズはデビュー盤に不満だった

 

ローリング・ストーンズのデビュー・シングル「カム・オン」はイギリスで1963年6月7日にリリースされた。これはチャック・ベリーのカヴァー曲であった。

彼らはこのデビュー曲の選択には、いささか不満があった。

  

彼らはロックンロール以上にR&Bに心酔していたからだ。

そもそもバンド名自体がブルースマン、マディ・ウォーターズの曲「Rollin' Stone」から取っているぐらいである。

 

売れてからの話だが、彼らはマディ・ウォーターズとの一夜限りの共演を果たしている。このことは以下のコラムで書いた通りだ。

 

キース・リチャーズの回想によれば、当時はシングルでそこそこヒットを飛ばさない限りアルバムは出せない環境だった。それぐらいアルバムを出せるのは特別な者たちに限られていたのだ。

 

そして多くの、アルバムを出せなかったバンドが、デビュー・シングルを出してからちょうど2年後に活動に終止符を打っていた。

それぐらいレコードを出すということには、重い意味があった。

 

だから彼らストーンズのマネジメントをしていたアンドリュー・ルーグ・オールダムが売るための戦略としてその曲を選んだのだった。しかしメンバーは後悔していた。

キースはそのシングルを、二度と聴きたくもないレコードだと吐き捨てている。

 

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 ミックの奨学金で家賃を

 

当時の売れる前のローリング・ストーンズは、当然経済的には困っていた。

なにせ、大学生だったミック・ジャガーは国から奨学金をもらい、それを資金源にキース・リチャーズとブライアン・ジョーンズが一緒に暮らすアパートメントの家賃を払っていたほどである。

 

ローリング・ストーンズのシングル「カム・オン」は彼らの迷いも手伝ってか、発売3ヶ月後にどうにか全英チャートの22位までは辿りついったものの、そこまでだった。

 

そしてその時、全英チャートの1位に颯爽と躍り出てきたのは、ビートルズの「シー・ラブズ・ユー」であった。

ビートルズとはもちろん顔見知り以上の関係であり、バンドとしてはライバルでもあったが、お互いの演奏を聴きにクラブに通い合う交流もあった。

 

ミックは売れてきても謙虚さを忘れないビートルズに好感を抱いており、特に心遣いが肌理細やかなジョン・レノンを信頼していた。

 

 

それまで1位だったビリー・J・クレイマー&ザ・ダコタスの「バッド・トゥ・ミー」も実はレノン/マッカートニーが提供した楽曲だった。

 

まさに飛ぶ鳥を落とす勢いであり、しかもビートルズにはロックンロール以上にR&Bのスピリットが感じられたのでストーンズのメンバーは彼らが羨ましかった。

  

 

ちなみに「バッド・トゥ・ミー」はビートルズもセルフ・カヴァーをしている。

 

 

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ポールがリンゴの歌いやすい曲を書いた

 

一方、人気が鰻登りの中、セカンド・アルバム を制作しているビートルズの方に目を向けよう。

 

ポール・マッカートニーとジョン・レノンは、音域が狭いリンゴ・スターにとって歌いやすい、デビュー・アルバムに収録した「ボーイズ」のようなオリジナルを作ろうとしていた。

ドラムを叩きながら歌えるということも視野に入れなければならなかった。

 

ポールはベニー・プレスマンの「Fortune Teller」 にヒントを得て、曲を書くことを思いついた。もちろん彼はそれを隠しもせず公言している。

 

 

そして、レノン/マッカートニーの共同作業というよりは、大部分がポールの手によって出来上がったのが「アイ・ウォナ・ビー・ヨア・マン」だ。

確かに「Fortune Teller」 に似ている部分もあるが、充分にビートルズのオリジナリティがある曲となっている。

 

R&Bフレイバーとビートルズらしさが見事にブレンドされ、リンゴのボーカルもぴったりハマっている。 

 

  

 

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ミック・ジャガーの幸運

 

曲がほぼ出来上がった頃のある日、ジョンとポールは「ノーザン・ソングス」、つまりレノン/マッカートニーの楽曲の著作権を管理、出版をする会社で少し仕事をした。

 

その帰り、よくウィンドウ・ショッピングを楽しむその近くのチャリング・クロス・ロードにある楽器屋に向かった。そして店のウィンドウに辿り着くと、展示されているギターを眺め始めた。

 

折しもそこをタクシーで通りがかったのがミックジャガーとキース・リチャーズであった。

 

ジョンとポールに気が付いたミック・ジャガーはタクシーを止めさせ、窓から身を乗り出して二人に声を掛けた。

「君たち、何をしてるんだい?」

ジョンとポールは驚いて振り返ったが、ミックとわかると2人とも楽しげに笑った。

 

ジョンは言った。

「楽器を見ていたのさ。君たちはどこに行くんだい?」

「これからスタジオなんだ。このところレコーディングをしているんだよ」

ミックが答えた。

 

ポールが横から笑顔で言った。

「僕たちも連れてってくれないか?聴かせてくれよ!」

「それはグッド・アイデアだ」

ジョンも応じた。

 

そして2人はタクシーに乗り込んできた。それはローリング・ストーンズに幸運の女神が微笑んだ瞬間だった。

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車中での運命のやりとり 

 

車中でミックが2人に言った。

「 何かいい曲をもらえないか?これというのが見つからなくて困っているんだ」

 

ジョンとポールは顔を見合わせて、何やらニヤリとした。どうやら同じことを考えたようだ。

 

怪訝そうに2人の顔を見比べるミックにポールは言った。

「リンゴのために作ったアルバムに入れる曲があるんだが、それを歌ってみるかい?」

ジョンも横で頷いている。以心伝心とはこのことか。

「えっ、いいのかい・・・そんな新曲を・・・?」

ポールは微笑んで返事に代えた。

ミックはキースと顔を見合わせた。いつもぶっきらぼうな面持ちのキースも、この時ばかりは嬉しそうだった。

「じゃ、ポール、ジョン、これからスタジオで聴かせてくれ!」

 

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ブレイクの足掛かり

 

かくしてローリング・ストーンズのセカンド・シングル「I Wanna Be Your Man」がリリースされ、11月14日に全英チャートに41位初登場を果たし、12月19日に最高位13位をマークした。

 

勢いづいたローリング・ストーンズは年が明けた1964年1月1日、イギリスの人気TV音楽番組「Top of The Pops」に出演し「「I Wanna Be Your Man」を披露して、大好評を博すことになる。

 

 

その翌々日には念願叶って、いよいよローリング・ストーンズのファースト・アルバム制作が始まった。

 

ストーンズのメンバーはこの一件でも、ビートルズに大いに触発された。そして、彼らはもうカヴァーではなく、ビートルズのように自分たちで曲を紡ぎ出して、アルバムを埋めようという思いでレコーディングに臨んだ。

 

出来上がったファースト・アルバム『ザ・ローリング・ストーンズ』はその年の4月に発売され、5月2日にはライバルであり恩人でもあるビートルズの『ウィズ・ザ・ビートルズ』を追い落として1位になり、12週間その座を守った。

 

 

 

 ※アルバム『With The Beatles』フル・プレイリスト 

    

 

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